Berkeley

2009

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講義「戦後日本」

2009年05月30日10:13

今、大学は卒業式や学位授与式も終り、あちこちで引っ越しする学生の姿もちらほら。長い夏休みが始まります。

しかし、サマーコースというのもあって、集中講義をやる先生もいます。

それで私は、私のスポンサーである歴史学部教授、アンドリュー・E・バーシェイさんの「戦後日本」という学部の授業に参加することにしました。

参加者が約30人ぐらいの授業で、前の「20世紀の日本」の講義にも参加していた学生も何人か見かけました。この10年以上の間、毎日授業をする ばかりだったので、人の講義をきくというのは、本当に新鮮な気分です。しかも、20代の若い学生たちといっしょにノートをとるのは、何だか学生時代にも どったようです。

困るのは、バーシェイさんは時々分からなくなると、私に確認することです。日本人だから日本のことは何でも知っていると思っているようです。

「映画の寅さんシリーズは何作ありましたっけ?」
「昭和天皇の死因はなんでしたっけ?」

そんなことをいきなり振られるわけですが、まあ今のところちゃんと答えて、事なきをえています。学生たちも「あのオジサンは一体何者なんだろう?」と思っているにちがいありません。

さて、学生の反応や、先生の教え方、教材の内容や講義でつかう英語の特徴など、毎回本当に勉強になり、興味はつきないのですが、何よりも刺激的なのは、アメリカから見た日本の姿を、ここアメリカで、しかも英語できき、考えるという経験なのです。

バーシェイさんは、初めに一通り板書をすると、教卓のうえにちょこんと座って、その後キリストが弟子たちに教えるように、学生たちを見下ろしなが ら何のメモもなく話し続けます。いわゆる「名講義」で、よどみなく流れる英語、かっちり理論的に整理された歴史観、難しい概念は一切使わずに、しかも深く 重厚な内容を学生たちに伝えていきます。一瞬もききのがすことができません。

前にも書いたことですが、「教え方」云々というよりも、彼の一流の研究者としての、まさにひとりの「探究者」としての、知的興奮が伝わってくるので、学生たちもいつの間にかひきこまれていきます。

さて、「バーシェイ歴史観」の最大の特長は、「歴史の下半身を見る」ということにあると思います。これは彼の先生のロバート・ベラーさん譲りのも のなのかもしれません。歴史を下半身からしっかり把握する。民衆の信条や、経済構造、エリートたちをとらえていた世界観、田舎と都市の格差などなど、歴史 の厚みにザックリとメスを入れることで、歴史が立体的に、3次元で迫ってくる知的な目まいを覚えます。「歴史ってこんなに面白かったんだ」という子どもの ような発見があります。もっと早く出会っていたかった、とも思います。

そしてそのメスが、まさに自分の生まれ育った国の歴史をどんどん解剖していく。それは、本当に「解剖」という言葉がぴったりで、日本の生活にどっぷりつかったままでは、到底できない作業であるような気もします。

最初の講義の冒頭、「戦後日本の歴史を考える上で、歴史をどこから説き起こしたほうがいいでしょうか。その理由もつけ加えて誰か言ってみてください」

そこはさすがにアメリカの大学。すぐに何人かの学生がいろいろ発言しています。ぼくはとっさに、「戦時中かな?」と思っていました。しかしその時、前に座っている女子学生が、「19世紀でしょうか。アジアが植民地化され、日本の近代も始まったので…。」

「そうですね。私たちは、幕末から話を始めましょう。」

そうやって、講義は、まさに幕末から始まったのでした。

学生の優秀さもさることながら、「戦後」を考えるためには、明治以前にまでさかのぼらなければならないという視点に改めてハッとしたわけです。私 たちは未だ、明治以来の遺産の上に立っている。しかも、現在の行き詰まりも、プロジェクトとしての「日本近代」そのものの行き詰まりとしても考えることが できる…。

私は今、アメリカで「日本」を再発見しています。





映画「青春残酷物語」「新宿泥棒日記」を観る

2009年05月30日16:00

今日から、大学のパシフィック・フィルム・アーカイブは、大島渚月間で、大島作品をたくさん上映します。

実は、「愛のコリーダ」以外、彼の作品をあまり観たことがなく、今日上映された「青春残酷物語」(1960年)と「新宿泥棒日記」(1969年)を立てつづけに観に行きました。どちらも、つくられた年代に意味があります。

まず、「青春…」から。1960年、街で反安保運動が真っ盛りの中、政治ではなく、愛と欲望を武器に自由と解放を求めた男女が敗北していくという 話です。子どもをおろして眠る彼女のそばで、青年がリンゴをかじり続けるシーンは、映画として「お見事」でした。1960年(私が生まれる6年前)の日本 がカラー映像で出てくるので、当時の社会の匂いがしてくるようです。何はともあれ、当時日本社会には闘う元気があった。しかし、この段階で、すでに金と権 力の支配する管理社会へと突入していたこともわかります。

次に「新宿泥棒日記」。始まり方が良いです。69年ですでにグローバル化の世界を見据えていた感じです。ただ、厳しく言えば、全体的に「前衛」を気取りすぎて、青臭い学芸会のような作品でした。主役の青年は、あの横尾忠則。女性役(横山リエ)もよかったです。

昔の紀伊国屋書店が主だった舞台で、懐かしかったし、かつての本やことばが力をもっていた時代の雰囲気を思い出しました。今の堕落した紀伊国屋書店を見れば分かるように、時代も本当に変わってしまったのです。

二つの大島作品に共通しているのは、求道者のようなひと組の男女。性を媒介に、大きな社会の力と対峙するという構図です。「新宿…」の最後で明ら かになる女性の乳房の傷は、かつてアメリカ人の「かわいそうな青年」にナイフで刺された際にできたものです。そのシーンは、力がありました。

時代や社会が大切なものを置き去りにして過ぎ去ってゆくことへの激しい「怒り」。

二つの大島作品から共通に伝わってきたものです。