Berkeley

2009

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オバマ大統領就任式

2009年01月21日05:22

「歴史の瞬間」に立ち会うために、朝から行ってきました。

UCバークリーの「フリースピーチ運動」発祥スポットである、キャンパス内の「Sproul Plaza」には、写真左のような大きなテレビが設置され、それを広場にあふれかえる教職員・学生たち(写真右)といっしょにみました。

いつものように、結論から。気がつき、考えたこと。――箇条書き――

●この催しは、まず学生代表である女子学生の格調高いスピーチから始まった。またしても、あくまで「学生が主」という大学の文化を感じる。

●次に大学の学長が挨拶をしたので、これが正式な大学の行事になっているということがわかる。校旗も飾ってあった。こういう政治的なことを大学が公然とやるというのに驚く。

●こういう式は通常、アメリカ国歌ではじまり、アメリカ国歌で終わることが多いが、その際、そこにいるすべての人々は起立して、心から恭順の意を 表していっしょに歌う。今日もそういう展開になったが、これにはいつもぼくは困ってしまう。この穢(けが)れない(と彼らが信じている)愛国心は、戦争に 負けた日本人にはありえないと改めて思う。あの時、日本人はデモクラシーという原理に負けたんだ、ということにも改めて気がつく。何のためらいもなしに、 心を一つにして市民が国歌を歌うということに、正直いえば、ジェラシーすら感じる自分がいた。

●彼らアメリカ人には歴史がない。しかし歴史がないからこそ、日々それをつくろうと努める。彼らは、懸命に、いつも「歴史」を演出しようとしているように見える。しかしその意志が、本当に歴史をつくってゆく。アメリカ人とは、強迫観念的に歴史をつくろうとする人々だ。

●ぼくが先月訪れた、ワシントンの独立記念塔から議事堂に至るまでのあのきわめて広大なスペースが、すべて人で埋まっている画面を見て、その群衆の規模に驚嘆する。ブッシュが画面に出てくると、聴衆は一斉にブーイング。しかしこれは、善悪二元論の単純な感覚だ。

●これは直観だが、オバマ勝利の背景には、きっとユダヤ・キリスト教のメシアニズムがある。虐げられたマイノリティが、やがて世界の希望となると いうストーリーこそ、オバマが演じた「HOPE」のシナリオだった。この「逆転」というか、「革命」の感覚は、日本にはない。それは思想としてのキリスト 教が根付いていないからだ。日本に革命が起きないのは、革命のストーリーが民衆に共有されていないからではないか。そして言うまでもなく、アメリカ大統領 就任式自体が、しごく宗教的だった。

●日本のメディアは、オバマ現象を誤解している。オバマが訴え、また彼を大統領にした原理は、あくまでもナショナリズム(ひとつのアメリカ)だっ た。だから、それによってアメリカ外交が根本から変わり、世界平和がすぐにもたらされると信じる人は、政治的にあまりに未熟だ。また他方で、「ただ熱に浮 かされたアメリカ人」という理解だけでは、今の変わりつつある世界に日本は置いてきぼりになる。自分たちの政治的ペシミズムを今のアメリカに投影すると間 違えてしまうだろう。だから、オバマに対する過剰の期待も、過度の失望も、市民やメディアの政治的未熟を示している。「オバマ」を正しく理解するというこ とは、まずおのれの国の政治を変えよ、ということに他ならない。少なくともアメリカ人はそれをやろうとしているのだ。他国のデモクラシーに過度に期待した り、それを嘲笑したりする前に、まず自国のデモクラシーをどうにかすることだ。

●もうひとつ、日本のメディアがわかっていないことは、アメリカの差別の歴史の重みだ。肌の色が「黒い」人間が大統領になるということの意味が、 分かっていない。それだけでどれだけ革命的であるか、ということ。ここに至るまでにどれだけの涙と苦しみがあったのかということ。相手の文脈で、相手に起 こったことを理解する国際感覚や想像力が欠落している。

●オバマの就任演説は、昨年の勝利演説と比べると華やかさはなくなったが、切々と個々人に語りかけるというスタイルで、ケネディを彷彿とさせるも のだった。式自体も、比較的簡素で、演説も言うべきことを言ったという端正な「仕事師」としてのスタイルだった。そして何より、その内容には、長い歴史の 中で自己(の権力)を相対化するという自制のセンス(humbleness)が滲み出ていた。建国の始めから説き起こし、自己の使命を位置づけるような姿 勢と風格は、残念だが今の日本の政治家には望むことができない。

●最後に。彼の演説の中にあった、海外の人々への呼びかけについて。

「アメリカは、平和と尊厳の未来を求めるあらゆる国々、あらゆる市民の友人であり、そのためにもう一度、指導力を発揮していく用意があると、知ってほしい」

これは本来、日本の憲法に基づき、私たちの国の代表が世界に向かって言うべきだったことだと思う…。

ちなみに、今日のスカイプで、「アメリカで初めて肌の黒い人が大統領になったんだよ」と娘に言ったら、案の定、人種差別や植民地主義のことなんか を説明せざるをえなくなり、その結果、「なんで肌の色なんかでいじめたりするの?」という究極の質問を浴びました。困った挙句、「そうだよね。どうしてだ ろうなねえ」とごまかすしかありませんでした。

オーストラリアに居た時、彼女の受けた教育は、「人と違うことはチャーミングだ」ということでした。ぼくも保育園や小学校で何度も目撃しました が、目の色や髪の色が違うことは、積極的に評価されていたのです。だから、今日の話は、彼女には本当に不可解なようでした。オーストラリアにも先住民がい たことは知っていたようなので、アメリカもそうであったこと、黒人は奴隷として連れてこられたのだということを伝えました。

そんなことを説明しているうちに、やはり今日は歴史的な日なのだと、改めて思いました。





研究会:北東アジアの民主主義

2009年01月21日14:04

今日は忙しくて、夕方からは、「北東アジアのデモクラシーの未来」というパネルディスカッションをSFまでききに行きました。

ロバート・スカラピーノさん(アジア政治の権威・バークリーの名誉教授)、マイケル・アマコストさん(元駐日大使・「ミスター外圧」)の話をきくのが目的でした。

写真の一番手前が、アマコスト氏(現在はスタンフォード大)です。スカラピーノ先生はその奥の、頭がツルツルの人です。もう90歳近いにもかかわらず、本当に明晰という感じでした。

結論から。

台湾の元外相の人の話(現在台湾人が抱えるアイデンティティの分裂の問題)は面白かったのですが。全体の議論は概して、Nothing New…。

各スピーカーのデモクラシーの定義から、まず恣意的で、議論に深みがありませんでした。誰でも知っていることの羅列でした。まあこんなものなのかもしれません。

アメリカ国旗と台湾国旗が掲げられ、中国と北朝鮮は「問題」として取り上げられる図式。なぜか日本は総領事が会場にきていたにもかかわらず、パネラーとしてはアマコスト氏が出てきていました。

国際関係のシンポジウムはえてして、それ自体が政治。

うがった見方をすれば、「デモクラシー」とは、単に同盟関係を結びつけるシンボルとして利用されているにすぎません。

スカラピーノさんは、おもいっきりオバマ批判を展開していました。

なんだか、プンプン匂ってくる会合だったので、早々に会場を後にしました。