Berkeley

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カリフォルニアの気風――社会の「湿度」について

2009年03月16日14:53

先日、大学のある図書館員の方とお話をしていて、カリフォルニアの人々の気風についての話題になりました。

その方は、ここに来る前は、メリーランドとシカゴの大学に長くいて、東海岸と西海岸を比較して話してくださいました。

冒頭、「ここの人たちは、みんな冷たいでしょ」と、ちょっと驚くようなことをおっしゃったのですが、よくきくと、納得することも多くありました。

言うまでもなく、ここは、コスモポリタン(世界市民)の気風があります。世界中(とくにアジアや中南米)から、本当に多種多様な人々がきて生活しています。

それゆえ、「多様性」はもはや文化として定着していて、たとえば街中をどんな格好をして歩いていても、誰も何も気にしません。これは特に日本人 は、体験してみると最も驚くことのひとつです。人の眼ばかりを気にする日本から来てみると、ここではその意味で相当に爽快な気分になることができます。

しかしこれは裏返すと、「他者に関心がない」ということでもあります。ここでは人間関係は、まるでここの乾いた風のように、みんなカラっとしています。楽と言えば楽ですが、寂しいといえば寂しい。

社会に「湿度」という概念が当てはまるのかどうかわかりませんが、「乾いた社会」、「乾いた人間関係」においては、こちらが何かをするまで、こち らが何かを表現するまで、他者は一切自分に関心をもちません。特に、バークリーやサンフランシスコのような都会では、みんな自分のことで日々忙しく、他者 をかまっているような暇はありません。

一方、日本の社会は、ここから見るとじめじめしていると感じます。最近、日本の80年代のポップスなどを懐かしんで聴くことがあるのですが、本当 に湿度が高いことに気がつきます。井上陽水も、サザンオールスターズも、じめじめしている。三島由紀夫も、川端康成も、夏目漱石も、じめじめしている。ド ラマも映画もみんなじめじめしていて、すべてが演歌のようです。でもそれが日本らしくて良かったりもする。

あくまで主観でしかないのですが、村上春樹や吉本ばなな、あるいは阿部公房の文章は、それに比べるとやや「乾いている」と感じます。そしてそれら は今、世界中に読者をもっているとききます。日本の「湿度」をそのまま海外にもっていくと、ちょっと水分が多すぎるので、多少湿度を下げたほうが西欧人に は受けるのかもしれません。あくまで仮説ですが。(余談ですがこれに関連して、日本で「水に流す」ということばがありますが、ここではどちらかといえば 「風に吹かれる(blow in the wind)」ということがばがぴったりします。)

「努力してコミュニティをつくる」という文化は、だからこの「乾いた」文化だからこそ生まれるのかもしれないとも思います。もともと淡白な人間関 係なので、深刻な必要に迫られてはじめて「他者」を求める行為が生まれる。だから逆に、そのつくられたコミュニティは、意味のある強固なものとなる。そう いうメカニズムがあるような気がします。

ここ太平洋に開かれたベイエリアでは、伝統的な保守主義が想定するような「あらかじめの共同体」は望むことができません。そもそもカリフォルニアは、ゴールドラッシュで一財をなそうとした冒険家たちが外から押し寄せて発展した地域です。

先の図書館員の方が、「シカゴは寒い。寒いから冬にすることがなくてみんな集まって酒を飲む。だからシカゴ学派なんてできてしまうんです」と、こ れもまた乱暴ですが、面白いことをおっしゃっていました。それをきいて、かつて訪れた中・北部ヨーロッパの諸都市の「暗さ」と奥深い社会の印象を思い出し ました。

たしかにここカリフォルニアは、気候がよすぎる。人々は、明るい希望をもちながら、それぞれ「一攫千金?」を夢見て一人で外を闊歩できる。その乾いた明るい気候と、この社会の気風はきっと無縁ではないと最近考えるようになりました。

まあ、新しいことに挑戦するなら、ここは最も適した土地の一つだということは間違いないでしょう。写真は、散歩の途中で撮った、一足お先のバークリーの夜桜です。