Berkeley

2009

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美の多様性

2009年02月24日13:52

アメリカに「帰国」してからすぐに、この3日間は、新潟からぼくを訪ねにきた学生たちを案内することに費やされました。たった3日間なので、あれもこれもと盛り込み過ぎだったような気がしますが、彼らも充実した日々を経験できたのではないかと思います。

こちらも、普段は行こうと思って行けていない所に訪れる絶好のチャンスとして位置づけ、以前から行きたかった飲茶のお店や、未だ行っていなかったゴールデンゲートブリッジのフォート・ポイント(写真左)などを訪れました。

中でも、サンフランシスコのダウンタウン中心部から少し離れたところにある「デ・ヤング」美術館を初めて訪れることができたのがよかったです。 「デ・ヤング」はSFの中でももっとも歴史のある美術館で、2005年にゴールデンゲート・パークにリニューアル・オープンしました。行ってみると、予想 よりずっと大きくて驚きました。

美術館の重要な機能の一つは、美の歴史や多様性を市民が再認識するきっかけとなることにあると思います。その意味で、「デ・ヤング」美術館はとても優れた美術館であると思います。

ちょうど特別展として、イブ・サン=ローラン展と、アンディ・ウォーホール展が開催されていました。イブ・サン=ローランとは、いうまでもなくあ の「YSL」が重なったロゴで有名なフランスを代表するブランドの創始者イブ・サン=ローランです。ぼくは以前から、彼のつくるデザインが少し商業的すぎ るように感じ、あまり好きではなったのですが、その特別展で彼が猫といっしょにいるのをウォーホールが撮った写真(それは本当にすばらしい写真でした)を 見て、少し見方も変わったりました。入口に、彼の「私がもっとも理想的だと思う服は、彼女を包む、彼女が愛する男の腕である」という言葉があって、それで 何だかゾクっとさせられました。

壮観だったのは、これまでの彼のデザインが、所狭しと無数のマネキンに着せられて一挙に展示されていたことです。「美」を追求することに生きるギ リギリの緊張感や厳しさ、研ぎ澄まされた脆くも逞しい感覚の世界に少しだけ触れることができました。その洗練された近代的な「美」の世界は、観る者に「陶 酔」と同時に、人を寄せ付けない氷のような冷たさをも感じさせます。そこには、モードという、まるで刀の刃の上を走り続けるような「先端」の世界が展開し ていました。

しかし、「デ・ヤング」の魅力は、たとえばその会場の隣が、アフリカの古い展示物で埋め尽くされていたということにみられます。そこでは、近代以 前の人間がもっていたあらゆる可能性が想起されるような、アルカイックな世界が広がっていました(写真中)。その個々の展示部が持つ力は、まるで、今それ に触っても呪いがかかるのではないかと思わせるほどです。自然や神への怖れと、女性や動物、生命への賛美、戦いの神聖などが21世紀の観る者にも赤裸々に 生き生きと迫ってくる。この圧倒的な「美」の重さは、イブ・サン=ローランの「美」とは異質です。彼もまた、アフリカやアジア、中東の伝統衣装からヒント を得た作品を残していますが、そこではやはりそれとはまるで違う次元の「美」の世界が構成されているように感じました。

そして最後に訪れたのが、アンディ・ウォーホールの世界(写真右)。それは、端的に言えば、モードに身を売り、いわばモードの「売春婦」となるこ とで、それを突き抜けようとした革命と抵抗の世界。それは不思議と、アフリカの素朴な彫像に通じる世界でもありました。彼の「美」は、「美」を否定するこ とから始まり、そこに彼の終わりもあります。永遠の肯定と逃避と抵抗。彼の「美」とはいわば、破壊にほかなりません。ジョン・ケージとの共鳴なども具体的 な展示で知ることができました。

古代アフリカ、イブ・サン=ローラン、ウォーホールの世界を歩いて観ながら、次第に「美」についての根源的なテーマが浮かび上がります。

「美」は多様である。
というよりも、多様であることが「美」なのではないか。
つまり、「美」とは「それ」が「それ」として生きるということである…。

たとえば、こういう単純な真実につきあたったりもするわけです。

美術館がもつ、革命的な機能とは、まさにこの沈思黙考・反省(reflection)の機能にあるのではないかと、改めて思いました。