Berkeley

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黄昏の帝国で 7 ロッカールームデモクラシー

2008年10月04日08:12

昨日は、vice president(副大統領)候補同士のテレビ討論会でした。

案の定、今日のテレビはそれでもちきりです。
パリンが何回ウインクしたかとか、そんなくだらないことについても一大事です。

ぼくがおどろいたのは、ジムのロッカールームやシャワー室で、誰彼ともなく「おい、昨日のあれ見たか?」みたいな話がはじまって、軽い討論会が始まるということです。シャワーを浴びながらでも、みんな素っ裸で話しています。

「どう思うや!」とふられるのですが、ぼくは「選挙権がないので…」と参加しません。でも、面白いのでずっときいています。ぼくは素っ裸でシャワーを浴びながら、こんな話に参加するのは人生で初めてでした。

「俺は皆が言うほど、パリンはバカじゃないと思うな。彼女は覚えが早いよ!」とか、「ああいうパフォーマンスはどこかで見たよな。ジョージ・ブッ シュも同じだった。」とか(ちなみにここでは「ジョージ・ブッシュ」とは、マイナスの塊のような意味になります)、まさに、多事争論。

少し「お客さん」というか「観察者」の視点でこの様子を見ていると、そこには、アメリカのデモクラシーの根幹があるように感じました。つまり、大 統領選というイベントの中で、他人と意見を交わしたりすることによって自分たちが「アメリカ人」になっていくプロセスがある。少し難しい言い方ですが、 「アメリカ人」とは構成概念で、常に何かに参加したり何かをすることによって、初めて「アメリカ人」として自分を確認し構成していく。そういうプロセスが あるように思います。

つまり、大統領選というドラマは、単に候補者の中から誰かを大統領に選ぶというだけでなく、一人ひとりの「アメリカ人」を、もっといえば、アメリ カ・ナショナリズムを生み出していくプロセスでもあるということです。これを他のことばで言えば、アメリカもまた、デモクラシーの前に、ナショナリズム (愛国)という大前提がある、ということになるでしょうか。戦争などの非常事態の後に、大統領への支持率が以上に高くなる背景も、ここから理解できるかも しれません。

好んでニュース番組を観、ジムに通う、中産階級のアメリカ人たちの「政治参加」のあり方を見ながら、「アメリカ人であること」がもつ意味の特質と、それが、「日本人であること」の意味とどれだけ違うのかということを考えさせられました。