Berkeley

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黄昏の帝国で 8 最後のテレビ討論

2008年10月16日16:57

今夜は、大統領二候補による最後のテレビ討論会でした。

両候補ともが、ブッシュの8年間を強く否定し、「変化」を強調していること、そして経済や税制、健康保険問題などとならんで、エネルギー政策が非常に大きな争点になっているのが印象に残りました。

どうやらマスメディアは、視聴率はどのくらいか、マケインは挽回するか、世論調査の現在の数字はどうかなどを中心に報じているようです。

テレビ討論会はニクソンとケネディの時が第1回で、それ以来、どちらが健康そうに見えるかとか、ネクタイの色はどっちがセンスがいいのかなど、とかく大衆によるイメージ選挙の要素を強くしたものとして語られてきました。ぼくもそう思っていました。

でも、よく観ていると、このテレビ討論会で、長時間にわたって、両候補は実に具体的に政策を戦わせ、問題の争点を明確にすることに成功していま す。少なくともそれを観ている数千万の有権者の前で、単にイメージだけでなく、自分は何をするのか、どうしてそうするのか、相手候補とどこが違うのか、そ れをちゃんと自分のことばで説明しています。司会者もフェアでした。

終わった後、両候補はお互いの健闘を讃えあい、最後は両候補の配偶者も登壇して、合計4人に会場から熱い拍手が送られていました。マケインは 「healty discussion」ということばを使っていましたが、感情的にならず、ごく冷静で実のある議論だったと思います。

ぼくはテレビ討論会を初めて最後まで観て、当初思ったよりも、ネクタイの色や肌のつやで有権者が判断することはないと感じました。ケネディの時は そうだったかもしれませんが、今は違うという気がしました。日本と比べて、政治家のことばが「生きている」と感じました。そして、自分の考えや世界観を公 衆の目の前で、あれだけ体系的かつ冷静に議論できる政治家は日本にどれだけいるかと考えました。その時に浮かんだのは、たとえば「ワンフレーズ・ポリティ クス」で一世を風靡した小泉元総理などです。

ぼくは二大政党制だから、あるいは大統領制だからアメリカにデモクラシーが生きているのだとは思いません。それ以前に、第三者にしっかりと意見を 言える。相手の議論をふまえて建設的な討論ができる。そしてフェアに闘った後はお互いを讃えあうといったような、デモクラシーを支えるためのごく基本的な 身のこなしや習慣があるのだと思います。これがないのに、いくらマニフェスト選挙や党首討論などの制度を取り入れても、ダメだと思いました。

明日のジムのロッカールームでは、また第二の市民討論会が始まるのでしょう。アメリカのデモクラシーには幾重にも層になった厚みがあるのです。

(写真は次の日の「サンフランシスコ・クロニクル」の記事です。議論の争点が誰にでもわかるように、明確にまとめられています。)