新潟国際情報大学 佐々木寛 研究室
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From Niigata to the world新潟から世界へ

日刊ゲンダイ連載 希望の政治学読本(連載13回)

2016年7月27日~10月26日

連載1:9条は日本人の歴史的な「無意識」に根差す「文化」

「憲法の無意識」柄谷行人著 (岩波書店 760円+税)

参院選が終わり、自公政権が「圧勝」だったというマスメディアの報道は、果たして本当だったのだろうか。結果をつぶさに見れば、現政権の「終わりの始まり」を見てとることはできないか。少なくとも、「改憲」へのゴーサインが出たという総括には無理がある。

選挙期間中、現政権は極力「改憲」を争点化しないように努めた。しかし選挙後には、予想通り、「承認が得られた」として着々とその手続きを進めようとしている。繰り返されるそのような政治手法に、当の国民もいくらなんでもおかしいと思い始めている。今後いずれにせよ、都知事選や衆院選を迎える中で、安倍政権下の政治では、ますますこの国家の構成原理=憲法をめぐる問題が争点となるだろう。

しかし本書を読めば、安倍政権のもくろみがそれほど簡単ではないことが分かる。それは、日本国憲法9条の枠組みが、日本人の(徳川時代にもつながる)歴史的な「無意識」に根差すもので、それが常に超越的に現実社会を規制するからだ。

著者によれば、9条は憲法の条文である以上に、日本の「文化」(超自我)である。したがって、この原理に反すれば、いかなる政治権力もその足場を失うことになる。さらにこの「文化」は、世界史上の無数の平和思想から「贈与」されたという普遍的経緯を有しており、その意味で、憲法が「押し付けであったかどうか」という議論はきわめて皮相的なものとなる。

本書は、「9条があれば安心」というタイプの条文信仰の議論を排し、いわば「9条の血肉」を明らかにし、そのリアルな普遍性を再確定しようとする。「改憲派」であろうと「護憲派」であろうと、憲法議論は少なくとも本書が到達した地平から出発すべきだろう。すなわち、日本の「改憲」問題の中心にはしっかりと9条の問題が鎮座しているという政治的事実。そしてそれが「押し付けられた」がゆえに普遍性をもっているという政治的事実である。

連載2:地域に即して施行する実践的現場主義を

「野蛮から生存の開発論」佐藤仁著(ミネルヴァ書房 3000円+税)

本当に、「この道しかない」(自民党)のか。地方に住んでいると、中央(東京)から発せられるスローガンに反発を覚えることが多い。しかし、経済政策、エネルギー政策、安全保障政策、社会福祉政策、どれをとっても「もうひとつの道」を明確に示すことはそれほど簡単ではない。今、私たちが直面している〈危機〉は想像以上に根が深く、一時の政権や単発の政策などで克服できるものではないのかもしれない。「安全神話」や「成長神話」が崩壊したこの国で、いったい何をどう目指せばいいのか。

本書は、開発研究の学術的論文集である。しかしその射程は、いわば「新しい文明論」としても読むことが可能なほど広い。日本は、野蛮→「半開」(半文明)→文明という明治以来の単線的発展論を経て、戦後は世界有数の開発援助国となった。そして同時に現在、“援助する北”と“される南”(低開発)という二項対立を超えた、「開発以後」の諸課題にも直面している。つまり、グローバル化する現代世界では、人間の生存という共通問題の解決策を「南北の垣根を越えて地球規模で構想」しなければならなくなっている。

本書が提起するのは、単なる開発批判でも、新しい開発モデルの提示でもない。ここで蘇るのは、アリストテレスにまでさかのぼる〈実践知(フロネーシス)〉の伝統である。私たちは、それぞれの地域にとって本当は何が「貧困」で何が「豊かさ」なのか明確には分からないまま、常に手探りで「開発」を進めなければならない。このスリリングな課題に対処するためには、分業化した専門知というより、全体を見通すしなやかな総合知が必要となる。

著者によれば、このようにそれぞれの地域の現実に即して思考する実践的な現場主義という意味では、国土開発も含めた日本の開発史には普遍的な意味がある。来るべき社会のヒントは、まさに自らの足元の歴史の中にこそある。専門書で、これほど読後に爽快感が残るものは少ない。

連載3:「坂を下る」という新しい希望の道程

「下り坂をそろそろと下る」平田オリザ著(講談社 760円+税)

私たちはいつまで「坂の上の雲」を追いかけ続けるのだろうか。本書が投げかける問いは根源的である。そもそも日本はもうアジア唯一の先進国ではなく、かつてのような成長などありえない。現政権がうたう「成長戦略」も、実はその場しのぎのむなしい掛け声にすぎない。この国がまさに「坂を下る」プロセスの中にあるということは、本当はもう誰もが気づきつつある「現実」である。

こんな聞きたくもない事柄をなぜわざわざ取り上げるのか。「自虐的」ではないか。しかし本書は、「下る」という新しい希望の道程を指し示す。まずは、虚勢を張ったり、ごまかしたりしないこと。自分の衰えや寂しさを正直に見つめ直し、その「現実」から再出発すること。そこから、「勝てないまでも負けない」強靱なリアリズムが生み出される。

競争し、勝ち残ることだけを考えるメンタリティーからは、えてして差別や排除の病理が生まれる。しかし、自らの弱さや寂しさの根源を見つめる心の習慣からは、他者への寛容や助け合いの契機が生まれる。本書のメッセージはシンプルだ。もうこの国の「不敗神話」は終わった。しかしだからこそ、世界と助け合っていくという、次の新しい生き方を模索することができる。

本書によれば、この来るべき「新しい日本」を導くのは、他でもなく「人と共に生きるためのセンス」、すなわちコミュニケーション能力としての文化である。少子化問題も格差問題も、実はそれを解くカギは文化にある。記憶力や偏差値ではなく「生きる知恵」や共同性を重視した新しい教育実践、利益や地縁ではなく「関心」で結びつく緩やかなコミュニティー、「文化の自己決定能力」と「ソフトの地産地消」によって再生する新しい地方の姿。本書が提起する数々の文化戦略=社会変革は、そのどれもが著者の経験に裏打ちされた説得力をもつ。「時代の坂を下る」新たな旅路は、けっして暗くはない。新しいリアリズムと希望の始まりである。

連載4:エネルギー新時代の「常識」

「再生可能エネルギー100%時代の到来」和田武著(あけび書房 1400円)

「再生可能エネルギー100%社会」。エネルギー問題に多少は詳しい(と自分では思っている)人ほど、まずそんなことは「非常識」だと思うかもしれない。

この国では、「原子力ムラ」「安全保障ムラ」などのさまざまな「ムラの常識」が支配していて、そこから逸脱する議論はハナから相手にされない。しかし、その「常識」の信奉者たちの多くは、世界には他にもたくさんの「常識」があるという「常識」を理解できない。それゆえ、新時代の「常識」は、常にムラの外の住人に聞くしかないということになる。

本書の著者も、元はムラの住人だった。しかし、そこから抜け出して新しい「常識」を見いだし、訴え続けてきた。このように“転生”した人の言葉は聞くに値する。近い将来、再生可能エネルギーは間違いなく安価なエネルギーになる。デンマークは2050年までに再生可能エネルギーを100%、ドイツは電力の80%以上にする計画である。パラグアイはすでに3年前に149%を達成している。このような再生可能エネルギー中心のエネルギー政策は、一部地域の例外ではない。気候変動問題や経済雇用問題、安全平和問題をリアルに見据えた上で到達した、世界の趨勢となりつつある。

本書によれば、このエネルギー社会のパラダイムシフトを支える主役は、政府や大手企業というより、そのあり方を決める市民や自治体である。これからのエネルギー社会は、中央集権型=大規模依存型から、地域分散型=小規模自律型へと移行する。一国のエネルギー政策も、ドイツの「100%再生可能エネルギー地域」プロジェクトのように、それぞれの地域の事情に見合ったミクロな実践が基盤となるだろう。

04年まで太陽光発電の普及量が世界一だった日本、そして世界有数の豊かな再生可能エネルギー資源を誇る日本が、今なぜ世界とは真逆の道を歩んでいるのか。本書は小著だが、このような最重要の争点を包括的に取り上げ、新時代の「常識」を分かりやすく提示する。

連載5:共生の地平は共感能力から生まれる

「共生への道と核心現場」白永瑞著(法政大学出版局 4400円+税)

先の参院選終了後、現政権が真っ先に着手したのは、沖縄・高江の米軍ヘリコプター発着場工事の再開であった。本土から機動隊を動員した目に余る強行に「沖縄つぶし!」の声も聞こえてくる。沖縄では今、辺野古や高江の新基地建設に「島ぐるみ」で反対の声が上がっている。

しかし、それを単に安全保障や地域経済の問題として考えるならば不十分である。基地問題は、実際きわめて長らく集団的に差別され、侮辱されてきた沖縄の人々の、何よりも「誇り」や「尊厳」の問題であるからだ。だが、多くの日本人は、その深刻な事態について何も知らない。あるいは、知ってはいても知らないフリをし続けている。

さらに、「この道しかない」という本土の権力者たちはこう言うかもしれない。「経済成長によってしか日本人の幸せは保証できないし、中央集権やナショナリズムによってしか日本社会の調和は実現できない。同様に、米軍に依存するしか日本の安全保障を担保することができず、したがって沖縄の犠牲はやむを得ない……」。しかし本当にそうなのか。差別と犠牲の論理を超えた「共生への道」は不可能なのか。

本土の私たちは、まず本書を手に取るべきだろう。本書は、中国史が専門の韓国人研究者による東アジア論であるが、この先の世界との向き合い方を考えあぐねている日本人こそが学ぶべき視点に満ちている。まずは、近代史の構造的矛盾が集積する「核心現場」に向かうこと。著者はその「現場」を、沖縄や台湾、分断された朝鮮半島などに見定める。東アジアの「共生の地平」は、これら「核心現場の住民たちの苦痛を含めた総体的な生に対する共感能力」から生まれる。

近代史で徹底的に分断された東アジアだからこそ、そこから新たな普遍性が生み出される。著者が東アジアの近代と丸ごと格闘する中で生み出した、新しい主権構想(複合国家論)、そして新しい歴史研究のあり方(社会人文学)などは、その新たな普遍への道標である。

連載6:「和解」という冒険の世界へ

「和解」ティク・ナット・ハン著(サンガ 1400+税)

「和解」は21世紀のキーワードである。人類は今、近代世界で分断されてしまった多くのつながりを再生させるための思想と技とが試されている。「世界を変革しようと思うなら、まずは自分がその変革となれ」という箴言がある。これは実際に世界を変革したブッダやガンジーが実践したことでもある。しかし私たちは今、世界を「和解」させる前に、まず自分自身と「和解」できていないのかもしれない。本書が示すのは、まさに現代世界の「和解」への鍵が、私たち一人一人の内側にあるという真実である。

人類は、「ホモ・エレクトス(直立する人)」や「ホモ・ハビリス(器用な人)」、あるいは「ホモ・サピエンス(思考する人)」と呼ばれてきた。しかし著者によれば、何よりも私たちは「ホモ・コンシャス(気づきの人)」と呼ばれるべき存在である。私たちは自らの内に潜む痛みや悲しみに対峙し、そこに「内なる明かり」をともし、それを受け入れ、ケアすることで、自分を構成した家族や祖先、あるいは宇宙全体とも「和解」することが可能となる。過去の幻影にとらわれ、自我の牢獄に閉じこもるのではなく、自らを「命の流れの続き」として実感し、真に自由になることで、世界に満ちた暴力の再生産(輪廻)から抜け出すことができる。著者はこの絶え間ない気づきの実践を「マインドフルネス」と呼んでいる。

僧侶であり、詩人であり、人権・平和活動家である本書の著者は、ベトナム戦争時に「社会参画仏教(応用仏教)」の指導者として戦火で傷ついた人々を支援し、また戦争終結を求める和平提案によって母国を追われた。一貫して実践的な彼の教えが志向するのは、自己変革を通じた世界の変革である。昨今注目される「非暴力コミュニケーション」の技法などとも通底している。

本書は、自律的に世界と連帯する技、すなわち「和解」という無限の可能性をもつ冒険の旅へ読者を誘う。訳文もとても丁寧である。

連載7:「おまかせ安全保障」からの脱却

「市民力による防衛」ジーン・シャープ著(法政大学出版局 3800円+税)

よく、「北朝鮮や中国が日本に攻めてきたらどうする!」と問われることがある。どうなるかよく考えてみる。もし何もしなければ、占領されるかもしれない。けれども占領後、人口1億人以上の先進国をどのように支配するのか。侵略者はまず、複雑な官僚機構を動かすために、日本語をしっかりと勉強しなければならないだろう。そして何より、自分たちの支配が1億人以上の国民にごく正当なものであることを信じ込ませなければならない。

冗談のような思考実験であるが、現代の安全保障問題のある本質を浮き彫りにしている。「敵」の攻撃を「抑止」する力の中で、軍事力は依然として大きな役割をもつのかもしれない。しかし実際には、それ以外にもたくさんの政治的・社会的「抑止力」が存在する。

本書は豊かな歴史的経験の中から、市民の非暴力的な実践が、社会に対する不当な脅威を十分にはねかえす力をもっている事実を明らかにする。注目すべきは、この脅威とは、何も国の外からやってくるとは限らないという真実である。クーデターや独裁、自国軍や警察による暴力もまた、当然私たちの脅威となりうる。

著者によれば、準備され訓練された「大規模な非協力と公然たる拒否」によって、支配権力を「餓死」させることができる。たとえ一時的な弾圧があったとしても、それを新たな連帯や抵抗の力とする「政治的柔術」によって、逆手に取ることもできる。軍事力に頼らない市民による社会の防衛と安全の実現は可能なのだ。

このような議論に、「現実を無視した甘い議論」、あるいは全く逆に、「非暴力論にしては戦略的すぎる」という反論がありうる。しかし本書を読めば、まず著者の構想が長期的にはいかに「現実的」であるのか、そして非暴力という理想がいかに徹底的につきつめられているかがわかるだろう。エネルギーや食糧、社会福祉などと同様、「安全」についても、私たちは「おまかせ」主義から脱却すべき時代を迎えている。


連載8:弱者や少数者と共に希望が語れる社会への道

「バーニー・サンダース自伝」バーニー・サンダース著(大月書店 2300円+税)

金と権力にまみれた政治や、その政治を生業とする政治家たちと私たちはどのようにつき合っていけばいいのか。おぞましい政治の世界は、遠くから観戦して面白がるのがせいぜいで、自分はなるべく関わらないように生きるのが賢明かもしれない。

だが、そのように自分は政治から自由であると思っている人ほど、実はすでに政治にどっぷりとのみ込まれ、権力に利用されているかもしれない。自分の平穏な生活を本当に政治の禍から守るためには、逆に普段から政治と向き合い、これに働きかけていく必要がある。

周知の通り、本書の著者は、先の米大統領民主党予備選で「民主的社会主義」による「政治革命」を唱え、全米に一大旋風を巻き起こした政治家である。

最終的にはヒラリー・クリントン候補に道を譲ったものの、彼は「トップの1%が下から90%より多くの富を所有している」格差社会米国の現状を告発し、富裕層や大企業ではなく、労働者や中間層など大多数の国民のための政治を訴え、今でも熱狂的な支持を得ている。

彼自身、自らを「ホワイトハウスのアウトサイダー」(本書の原題)と呼ぶように、その終始一貫したラジカルな政治姿勢によって、これまで常に少数派の道を余儀なくされてきた。しかし今の米国社会では、大多数の国民自身が政治から排除され「アウトサイダー」となっており、彼の訴えは、むしろ現代民主主義の議論における主流の位置を占めるようになった。

もはや「右」や「左」などではない。彼にとって重要なのは、何よりも人々の生活の現実であり、弱者や少数者と共に希望が語れる社会の実現である。そしてその理念は、日常的かつ粘り強い政治参加を通じて、初めて現実のものとなる。

政治家の自伝は、概して自慢話か自己正当化の手段なので、引き算して読まなければならない。しかし本書は、これからの「新しい政治」がどのように生まれるのかについても私たちに教えてくれる。

連載9:日本は「単身者」中心の「分断」された社会

「《被災世代》へのメッセージ」大森美紀彦著(新評論 1800円+税)

リオ・オリンピックの熱狂が過ぎ去ったが、「次は東京オリンピックだ!」と明るい気分になれないのは私だけか。今日も福島第1原発ではあと何十年かかるかわからない廃炉作業が続き、もちろん放射性物質も漏出し続けている。何よりも住めなくなった故郷、分断された地域、離れ離れになった家族は依然として放置されたままである。

震災と原発事故によっていろいろなことが明らかになった。田舎の多くは「3・11」のずいぶん前からすでに荒廃していたし、東京と地方との関係はまるで宗主国と植民地の関係のようだった。都会でも「無縁社会」が進行していた。つまり、私たちは震災のずいぶん前からすでに「分断」されていたのだ。

本書はその理由を、「単身者本位社会」という概念で説明する。日本の近代化は、家族や村落共同体、地域を破壊し、そこから大量に生み出されたバラバラな個人(単身者)によって強い会社や国家をつくりあげた。根拠地を持たないこの浮遊した「孤人」は、時に会社を家族のように思い、社長を「親父」と呼んだりした。「衣食住」では何よりも「住」が軽視され、逆に単身者のためのさまざまなサービスや娯楽(単身者文化)が発達した。「日本の別居子の五人に一人は年間を通じてほとんど老親に会っていない」など、本書は豊富な例を示しながら、日本がいかに「単身者」中心の「分断」された社会であるかを指摘する。

民主主義の前提には、明確に自分の意見を表明する自立した強い個人が必要だといわれる。しかしよく考えてみれば、その自立した個人は、決して白紙から生まれるわけではなく、実は家庭や地域などのしっかりしたコミュニティーがつくりだすものなのかもしれない。そしてもしそうだとすれば、再生されるべきは、競争を勝ち抜くための強い個人ではなく、抵抗の根拠地としてのコミュニティーと、それを生み出す新しい実践に他ならない。

本書は、希代の政治学者、神島二郎のオマージュでもある。

連載10:「民主主義」をあきらめないために

「民主主義の内なる敵」ツヴェタン・トドロフ著、大谷尚文訳(みすず書房 4500+税)

私たちは今、本当に民主主義的な社会に住んでいるのだろうか?

本書は、24歳まで「全体主義」のブルガリアで過ごし、そこを逃れて残りの3分の2の人生を「自由の国」フランスで生きた思想家の手によるものである。人間の幸福にとって「自由」や「民主主義」がいかに重要であるか、著者自身が身をもって知っている。

しかし、「全体主義」に勝利し、この地上でいわば無敵の教義となった「民主主義」は今、本当に私たちを幸福にしているのか。著者の問いかけは根源的である。

確かに選挙や複数政党制など、制度としての「民主主義」は地球大に広がった。しかし、その「民主主義の衣装」をまとった社会の中身は、著者が「政治的なメシア信仰」「個人の専横」「新自由主義」と呼ぶような重い病に侵されている。そして何よりも深刻なのは、その病が私たちの体制の外側からではなく、今度はまさに私たち自身から生み出されているという事実である。

「自由のある種の使用法は民主主義にとって危険である」。そしてまた、「民主主義は自分自身のうちに民主主義を脅かす諸力を分泌する」のである。

いわば、慎みを忘れた私たちの「自由」「ヒュブリス(傲慢)」こそが「民主主義の内なる敵」となっている。著者が何度も言及する福島の原発事故もまた、社会的責任よりもすべてにおいて個人的な利益を優先する「新自由主義」の結末であった。

それではどうすればいいのか。今度の敵は私たち自身である。まずは「民主主義」をあきらめないこと。本書が示唆するように、「民主主義の現実をその理想により近づけること」は可能である。世界と人間の不完全性を引き受けながら、「それでもなお」工夫を凝らし、他者と共に出来る限り非人間化した社会を変革していくことは可能である。

本書は、現代における「民主主義」の病理に深く迫る。しかしそのことによって逆に、現代における「民主主義の生命力」を回復する手だても指し示している。

連載11:歴史的な反省力こそ人間の希望

「第三のチンパンジー」ジャレド・ダイアモンド著(草思社 1800+税)

先日、久しぶりにスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を見た。今から半世紀近く前の作品であるにもかかわらず、今見ても鮮烈な印象を与える傑作である。まだ言葉すらもたないサルが空中に投げる一本の骨が、一瞬で、真空に浮かぶ宇宙船に変わるシーンは有名である。キューブリックの作品はいつも、「人間とは何か」を問うている。しかも、常にどこまでも冷徹なまなざしで。

本書もまた、「人間とは何か」を問う。そしてキューブリック同様、はじめから人間に特権を与えたりはしない。

もちろん人間は、言語や道具を操り、農業や芸術を生み出した。しかし、しょせん人間は「第三のチンパンジー」にすぎず、他の動物と共に生物的進化の長い旅路を歩む生命の一部であった。ただ、人間は特別な動物でもある。しかも、それほどは誇るべくもない意味において。

まず、「自らの種やほかの種を絶滅に追いやる能力」を持つようになった。「ジェノサイド」は歴史上、人間の習性であった。また、必ずしも生殖とは結びつかない「風変わりな性行動」を示し、体に悪い薬物を乱用し続けてきた。本書は、これら「不都合な真実」がなぜ誕生したのかを、生理学、進化生物学、生物地理学、言語学、人類学等々、多くの学問分野を越境し、明らかにしようとする。本書の魅力は、その豊富な知識に基づく壮大なストーリー展開であるが、人間の解明という包括的な課題には、そもそもこのような横断的知性が不可欠である。

さて、自らを滅ぼす可能性がある私たち人間は、今後どうすればいいのだろうか。まず、自分たちがつくり上げてきた「文明」そのものを、再度冷徹に見つめ直すことから始めなければならない。本書は、このように、「過去を理解し、将来の手引とする」ために書かれた。つまり、人間の希望は、いわばこの歴史的な反省能力にある。

連載12:「グローバル・タックス」を可能にする方法

「世界の富を再分配する30の方法」上村雄彦著(合同出版 1400円+税)

新潟の激しい知事選が終わり(この原稿を書いている段階でまだ勝敗は全く予測できないのだが)、選挙戦の過程であらためて気がついたことは、日本の国家権力の真の姿であった。自民党の二階幹事長が経団連幹部との懇談で、「何とかして、(自民、公明推薦候補の)勝利を考えていきたいと思いますが、どうか電力業界など、オール日本でやっぱり対抗していかないといけない」と語ったように、「オール日本」というのは、官邸や与党とならんで経団連や電力業界のことを意味するらしい。私たちはその二階さんの言う「オール日本」と闘ったわけだが、それはつまり、今回の知事選では、私たち新潟の市民がその「日本」に入っているのかいないのかが問われたということになる。

もう誰もが知っていることだが、現代世界の権力は、グローバル資本主義に根差している。簡単に言えば、富をもてる1%が残りの99%を支配する世界だ。もういいかげん世界全体を公正にしない限り、次々と噴出する問題を解決できなくなっている。しかもそれを暴力革命によって実現することもできない。残る方法はひとつだ。グローバルな制度を漸進的に変えていくしかない。

本書が提起する「グローバル・タックス」(地球レベルの徴税制度)は、そのもっとも有力な方法のひとつである。化け物のような金融取引や悪魔のような兵器取引に税金をかけて、その集めた資金をエイズ対策や貧富の格差の是正、地球温暖化対策などに使う。いたって合理的である。ただ問題は、このような事実上の「世界政府」の機能をどうやって実現するのかということである。本書は、それを「絵に描いた餅」にしないために、きわめて具体的な方法を提示する。しかも「中学3年生くらいから理解できること」をめざして。

本書の編著者は、長年にわたり、単に研究者としてだけではなく、活動家としてもこの問題一筋に取り組んできた。小著であるが、内容は豊穣である。

連載13:今、世界は平等な社会を求めている

「グローバリズム以後」エマニュエル・トッド著(朝日新聞出版 720円)

先週の新潟県知事選挙の結果は、全国を揺るがした。主として世界最大の原子力発電所の再稼働問題が争われたが、政権与党(そして連合までも)が推した候補は、再稼働「慎重派」の候補に完敗した。「原子力=夢のエネルギー」という神話は、もうこの国の有権者に通用しない。加えてこの選挙は、長年わたって原子力産業と共にあった日本の権力システム自体もまた、確実に崩壊過程を迎えつつあることをも浮き彫りにした。今後、日本の政治システムは歴史的な変容を余儀なくされるだろう。そして今回の新潟選挙は、その最初の画期をなすできごととして記憶されるようになるかもしれない。

しかし今、世界の何が壊れ、新たに何が生まれているのか。本書は、ソ連の崩壊や米国の金融危機、「アラブの春」や英国のEU離脱までも予言したことで知られる著者の、1998年から2016年までのインタビュー集である。著者によれば、この間のできごとは、一貫して「グローバリゼーションが国を乗り越えるという思想的な夢」が墜落していく経験だった。ヨーロッパは解体へと向かい、帝国としてのアメリカも崩壊過程に入っている。思想としての自由貿易も衰退し、ナショナリズムやニヒリズム、排外主義が噴出するようになる。

つまり、世界はもう「グローバル化に疲れている」。そして、「社会は今、苦しんでいて平等な社会を求めている」。

著者は文化人類学者である。識字率や家族制度、出生率などから世界を見つめる。たとえば、「45歳から54歳の白人人口の死亡率が上昇した」ことからアメリカ社会の不可逆的な変化を見通す。社会の歴史的トレンドを掴むためには、社会のシステムのうわべだけではなく、下半身を見なければならない。日本はどうか。「問題は日本の同盟の相手が米国だけ、ということだ」。その通り。著者の日本核武装論などには飛躍があるが、衰退するアメリカにどこまでも付き従うだけの外交に本当に展望があるのか、本書は問いかける。