新潟国際情報大学 佐々木寛 研究室
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From Niigata to the world新潟から世界へ

構造的暴力と現代 ――映画『カンダハール』を観て――

(2002/6/13 新潟・市民映画館シネ・ウィンドにて)

 今晩は、佐々木です。よろしくお願いします。
まず始めにお暑い中みなさん本公開講座に来ていただいて、 心よりお礼申し上げます。

 今年で(この公開講座は)4回目になるんですけども、今年は「暴力」というテーマです。 ちょっと暗いテーマで気が沈んだりするんですけども、 避けて通れないテーマだろうということで取り上げました。 では早速今日の私の話を始めようと思います。
私は実は2年前にこの公開講座で『スペシャリスト』というアイヒマンを扱った映画で ここでお話させていただきました。 当時を思い出すと非常に足がガクガクしていた状態でお話していた、 そんな気がするんですけれども、今日は少し余裕がありますけども やっぱり緊張していますので間違ったことを言ったら、皆様訂正して下さい。

 今回私が取り上げるのは『カンダハール』という映画です。 この映画は今非常に重要な映画で――もちろん前回の『スペシャリスト』も 重要な映画なんですが――国際的にも話題になった映画です。 私は映画が大好きでよく観ますが、 たくさん観て評論ができるほど映画に詳しいわけでもありませんし、 かといってイスラム教や中央アジアの専門家でもありません。 ですので今日はどちらかというと私の専門である国際関係論、 あるいは平和研究、平和学の立場からお話をさせて頂きたいと思います。 この講座のタイトルからですけども、「構造的暴力」という 少し見慣れない言葉があると思います。 この言葉についてはおいおいお話していきたいと思います。

 ちょっと最初にお聞きしたいんですけども、この『カンダハール』という映画を 今日いらしてる方ですでにご覧になった方がどのくらいいるのか 確認したいんですけども(ここで来場者の8~9割の方が手を挙げる)。 あ、すごいですね、ありがとうございます。 できるだけご覧になられてない方にも分かるようにお話したいと思います。

目次

  • はじめに――「9月11日」とは何であったのかもう一度考える
  • 1、映画『カンダハール』から見える(見えない)アフガニスタン
    • 1-1、自然環境と伝統社会(ブルカ)
    • 1-2、内戦と難民
    • 1-3、戦争経済とブラックマーケット
  • 2、世界の根源的な非対称性(「構造的暴力」)について
    • 2-1、アフガニスタンと国際社会
    • 2-2、歴史としてのアフガニスタン――近代主義という空爆
    • 2-3、21世紀の戦争――「テロリズム」と「空爆」
  • 3、構造的暴力を支える「文化的暴力」について
    • 3-1、言葉の問題
    • 3-2、マスメディアが作る世界
    • 3-3、「国づくり」「国家の再建」
  • 4、「構造的暴力」を漸減するために
  • 5、さいごに――「リアリズム」の回復

はじめに――「9月11日」とは何であったのかもう一度考える

 この映画を考える上でやはり重要になってくるのが去年の9月11日―― 「セプテンバー・イレブン」と言われますけども――あの出来事ですね。 「アメリカ同時多発テロ事件」というふうに言われています。 あれからいろいろなことが起こって、考えることができないまま どんどん状況が過ぎていくんですけども、これは一体何であったのか、 というのをもう一度考えてみたいと思います。 つまりどんどん過ぎていく過去を忘れ去るのではなくて、 あれからの出来事が一体何であったのかということを最初に振り返ってみたいと思います。 みなさんも同時代といいますか、同じ経験をされていると思うので ご自分の経験と照らし合わせながら振り返っていただきたい。

 まずはあの映像ですね。つまりビルに飛行機が突っ込むというあの映像です。 私はたまたまイギリスのホテルにいて、アメリカ人の女性が後ろで 「ビルに飛行機が突っ込んで地面が平らになった」とか訳の分からないことを叫んでいるんです。 私はまずい人に関わっちゃいけないと思って無視をしていたわけですけども、 よくよく聞いてみると近くにボーイが通りかかって「彼女の言うことは本当だ」というわけです。 つまり自分が本当に信じられないことが起こるわけで、 テレビを見ると何度もその映像が繰り返される。 何度も言い古されていることですが、あれはおそらくハリウッド映画を たくさん見た者による犯行で、ハリウッド映画を再現したものであると言う人がいました。 事実上あれ以降ハリウッドであれ以上の映像を作ることはできないと思います。 いかなるSFXを駆使しようとあんなにリアルなすごい映像を作ることはできない。

 その後、思い出していただければ分かるようにすぐさまパールハーバー、 真珠湾という言葉が出てきました。ロンドンでCNNを見ていたんですが、 ブッシュより早くブレアが出てきて「これは文明に対する挑戦である」と 名演説をしていました。さすがというか、そこらへんは間髪入れずに 「これは文明に対する挑戦である」と。それからメディアに溢れたのは 「パールハーバー」という言葉でした。あの事件はすぐに「文明VS野蛮」という形で 報じられるようになりました。つまりあんなテロリズムを行うのは野蛮である、 野蛮なやつらである。それは民主主義や自由主義を標榜する文明に対する 挑戦である、という報道がされました。非常に単純で分かりやすい世界像が 提示されました。私もパールハーバー、つまり真珠湾というのはこういうふうに 特に西洋社会では記憶されているのかとびっくりしました。

 そして10月7日アフガニスタンへの空爆が始まるわけです。 アメリカ外交史の専門家が言ってましたけど、最初からアメリカ政府は 空爆以外の選択肢を考えていなかったということが最近になってだんだん分かってきました。 つまりあそこで少なくともいくつかの選択肢が考えられました。 国際刑事法に乗っ取って犯罪人を探して、犯罪者として逮捕する という方法もありましたし、あるいは経済制裁を含む様々な方法が考えられました。 しかしブッシュ政権はあの時に空爆以外の選択肢を最初から 用意してなかったということがだんだん分かってきています。 それからこれはまことしやかに言われていますが、 はじめから知ってたんじゃないか。最近これが非常に問題になっている。 そうするとまさしく真珠湾というか、ローズベルトが真珠湾の攻撃を知っていたように、 ブッシュ大統領は知っていたんじゃないかという、大きな問題が出てくるわけです。

 そういうことを考える暇もなく空爆が始まりました。 そして国際世論の大きな流れは人々が裁判官になっていってテロリストを やっつけなくてはいけないというふうになる。裁判官的思考が世界を覆っていくことになります。

 それからもう一つ特徴的だったのが非常事態である、という論理ですね。 今までの平時とは違う非常に緊急を要する例外状況、非常事態の時代がやってきた。 だから今までの論理ではダメだというのがそれ以降ずっと世界を覆っていると思います。

 そこから何が生じたでしょうか。思い出していただければ分かるように イスラエルはパレスチナに侵攻しました。 イスラエルという国はパレスチナを占領しているわけですが 事実上パレスチナはテロリズムをずっとやり続けているんだ、 だから我々はパレスチナに侵攻する権利があるということをアメリカに倣って行うわけです。 中東専門家によれば、実はこの論法、テロリズムがあるから介入できる という論理はずっと前からパレスチナとイスラエルの間で繰り返されてきたことで、 アメリカはそれを真似したわけですけども、しかしそのアメリカが アフガン空爆をやった後に今度はイスラエルがまたパレスチナに 侵攻していくということになります。

 それから日本ではみなさんもご記憶に新しいと思いますが、 テロ対策特別措置法案というのが国会でいきなり成立するわけですね。 そして現在今期国会中に成立するかどうか分かりませんですけども 有事法というものが審議されているわけです。

 このように緊急事態、例外状況にある、だから緊急法が必要である、 今までの方法とは違うやり方でやらなければいけないという論理が結局は 「やったもん勝ち」という結果をどんどんと生み出している。 つまりアメリカはあらゆる国際法を無視してやっちゃうわけです。 やっちゃった後に良かっただろう、結果が良かっただろうと言うんですね。 有事法が憲法に違反していてもやっちゃえばいいわけですね。 こういう政治のことを「やっちゃったもん勝ち政治」というんですけども、 そのままですね(笑)。難しい言葉でいうとde factと言うんですが「事実上」、 つまりやってしまうことで新しい法を作っていくことですね。 事実が先行していくということが今起こっていると思います。

 こういった9・11以降の出来事が起こって目まぐるしく国際政治は動いていく。 しかし我々の新潟の市民生活というのはさして変わりもなく平和に過ぎていったわけです。 しかしだんだんと分かってきたことがあります。例えば被害者の数という問題が出てきました。 みなさんもご存知のように、最初あのワールドトレードセンターの被害者は 7000人と言われました。すごい数ですね。しかし最近の調査では おそらくこれは3000人以下である、最終的に落ち着くのは3000人以下であろうと 言われています。そして、まあこれは変な報道でしたが、 アフガン空爆の誤爆でなくなった方、あるいはアフガン空爆で亡くなった方が 3000人を超えていく。数の問題ではないですが、 そうすると結局ワールドトレードセンターで出た死傷者を、 誤爆や空爆で死んでしまった人たちの数が抜いてしまっているということに なっているわけです。そして先ほども申し上げたようにいろいろな ブッシュ政権の疑惑というのが出てきます。終わった後にそういうのが分かってくるわけです。 分かってくるというのがアメリカのいいところなんですけども。

 こういう中で多くの方がご覧になった『カンダハール』という映画が注目され始めます。 この映画は2000年に撮影されたといわれています。つまり9・11の前に撮られた映画なんです。 そうすると我々がいきなりテレビで知ったアフガニスタンというのは どういうところなのかということが、初めてこの映画を通じて知るようになったわけです。 正直な話、あの空爆が始まるまでアフガニスタンを知らなかったと思うんです。 私は2000年の授業で学生に「今世界で一番ひどいところはどこですか」と聞かれて 「アフガニスタンじゃないか」といって「アフガニスタンを知っている人」って聞いたら 一人もいませんでしたね、少なくとも学生は。しかし今はアフガニスタンという国を 知っている人はかなり多いと思いますし、都市の名前、カンダハールも含めて ジャララバードとかそういう地方都市まで知っている人がたくさんいると思います。

 これはどういうことか。つまり、空爆が始まるまで何も知らなかった国が アメリカの標的、ターゲットとなることではじめて有名になる。 この現実の中で『カンダハール』の監督のモフセン・マフマルバフさんが アフガニスタンに向けられた暴力というのは実は「無視されてきた」ということである、 暴力を加えられたということでなく長年に渡って全く省みられなかったことが、 この国にとっての暴力であり不幸なんだということを言います。 マフマルバフが書いた、多分ナンバーワンに長いタイトルだと思いますけど、 『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』 という本があります。これを読むとこの映画の背景、あるいは監督の主張というのが 分かると思います。これお読みになった方はどれ位いますか(数人が手を挙げる)。 少しいますね、分かりました。

 この映画を観た人の中にはこの当時のタリバン政権を批判しているんじゃないか、 女性を抑圧して、貧しい人たちを放っておく、そういうタリバン政権を批判した 映画じゃないかというふうに感じられた方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。 しかしこの本を読む限り、監督の意図はたぶんタリバン批判というものが主題ではなくて、 今申し上げたようにアフガニスタンがずっと無視されてきた、全く誰も知るところが なかったということにむしろ彼の言いたいことがあると思います。 歴史的な事実を申し上げれば、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻します。 そしてソ連撤退後の90年代、世界はアフガニスタンというのが存在しないかのように 全く省みることがなかった。特にその時代の問題をマフマルバフは告発したかった。 彼自身はこの映画は政治的な映画ではないと言っておりますが、 私はこれは一種の政治運動だと思います。つまり彼が自分で書いているように アフガニスタンが存在するという存在証明をこの映画を通してやりたいんだ、 というのがこの映画の主旨だと思います。

1、映画『カンダハール』から見える(見えない)アフガニスタン

 『カンダハール』という映画は難しいんですね。 アフガニスタンの存在を世界に示すということで、 出演している人はほとんどの人が現地の人であり、主人公の女性はアフガン人です。 それで彼女自身の友人から自殺するという手紙をもらって、 あわててマフマルバフのところに相談しに行った。 それでマフマルバフさんはその彼女の出来事を映画にしようとした。 ちょっと設定を変えて妹ということにして、撮ったわけです。

 撮影の舞台はほとんどイランの国境付近です。 だけれどもあの舞台の前提となっている状況はもちろん アフガニスタンを撮っているということになっています。 そのようにあの映画というのはほとんどが現地スタッフといいますか 生の素材を使って世界にアフガニスタンというものの存在を ある意味で彼自身が脚色して示しているわけです。 そうすると口悪いというか穿った見方をすれば、 マフマルバフが現実のアフガニスタンをゆがめて世界に知らしめていることにはならないか、 ということになります。これは映画に普遍的な問題ですけども、 映画は一体何を映すのかということになってきます。 結論から申し上げれば、『カンダハール』という映画によって非常によく見えてくるものと、 逆に見えなくなってしまうものが両方あると言っておきたい。

1-1、自然環境と伝統社会(ブルカ)

 映画ではアフガニスタンの自然環境は住みたくないってくらいの 砂漠として表現されていました。もちろんそういうことが強調されているわけですが、 厳しい自然環境であるのは確かだと思います。 75%が山岳地帯で残りの平野の7%しか耕地にならない。 農耕が非常に難しく、ほとんどが遊牧民です。 それからこれがマフマルバフにとっては重要なことなんですが石油がない。 天然ガスが北部にちょっと出るらしいんですけども、石油はない。 石油が出ればイランのように、あるいはサウジアラビアのように 国際社会が介入しますからもしかしたら近代化が進んだかもしれない。 けれどもこのアフガニスタンというのは天然資源がないんです。

 私も今国際関係論などを教えていますけど、 今回改めて中国の西側から中央アジアをずっと眺めてみると、 一般に国際関係論が前提としている世界とか国家とか民族とか、 そういう概念はどうやらアフガニスタンには当てはまりそうにないという気がしてきました。 少なくともアフガニスタンは地理条件がほとんど切り立った山ですから、 交通ができないから没交渉になるわけです。そうするとそこに国民国家を建てるとか、 共通のナショナリティを作るとか、共通の神話を作るとかはほとんど不可能なんじゃないか、 という気がします。

 そういう厳しい自然環境の中で伝統社会がずっと存続するわけですね。 これは映画で良く描かれていたと思います。パシュトゥン人というのが一番多くて タジク人、ハザラ人というのが大体同じくらいいます。 そのほかウズベク人などの少数民族がいます。 それでこういった人々は驚くべきことに我々の思っている民族とは違うんですね、 部族です。そして強固に自分たちの伝統文化を守っている。 他部族とは絶対結婚しないらしいんですね。それから商売もしない。 そういうふうにマフマルバフは書いています。

 そうすると今新聞で出てくるロヤジルカ、新聞では国民会議と訳されていますが、 僕はこの翻訳はセンスがないんじゃないかと思います。 今あそこのテントの中に集まっている人たちは国民なのかということですね。 国民会議といいますけど、会議にはまあなっているんでしょうけど、 我々が思い描く国会や議会とはまるで違う雰囲気だと思うんですね。 つまり我々のイメージというか、言葉から受ける、 マスメディアから受けるイメージというのが間違ったものかもしれないと思います。 このように自然環境と伝統社会が非常に濃厚に描かれているんですが、 ちょっとこの映画に出てくる伝統社会、あるいは自然環境というのは厳しすぎないかな、 という気もします。

 もう一冊本を紹介したいと思います。 長倉洋海さんという写真家が『子どもたちのアフガニスタン』 という本を書いているんですね。この人も非常に長い間アフガニスタンに 滞在して写真を撮っているんです。この本を読むと『カンダハール』とは ちょっと違う光景がある。非常に明るく楽しそうな子供達がいる。 市場にもいっぱい野菜があって。やっぱりイメージは大事であって、 映画だけで考えると行ったら死んじゃうんじゃないかみたいな雰囲気ですけども、 もちろんそこには人間が生きいてて楽しい生活、豊かな文化があるわけです。 それもやはり認識する必要があると思いますし、 もちろん監督はそれを十分理解した上である部分を表現として描いているんだと思います。

 さて、問題になるのが伝統社会のブルカ。ブルカというのはかぶりものです。 イランでは顔は出してもいいんですけど、 アフガニスタンの諸部族のかぶりものはほとんど顔も全部隠してしまうんですね。 これは伝統文化と言われているんですけど、もちろんタリバン時代の前は 着けていない人も多かった。それでタリバン政権になって強制的に つけさせることになったんですが、これがまた問題なんですね。 つまりブルカというのはマフマルバフによれば女性を抑圧するものなんです。 ブルカをかぶっている女性のほとんどは字が読めないということを彼は一生懸命に言います。 しかも一夫多妻制がある。これは女性が男性の一種の物になっている。 そういうブルカというものが抑圧の対象になっているわけですね。 確かにそうかもしれない。

 アクション・フォー・ヒューマンライツ新潟というNGOがありまして、 そこの人たちが果敢にアフガニスタンに潜入してきたんですね。 それでこの前その人たちの講演会に行ってきたんですが、そこでブルカを借りて着てみました。 私自身すごく驚いたんですけども、外から見ると抑圧されたイメージに見えますね。 しかしブルカをかぶって中から世界を見るとすごく広いですよ、視界が。 私は競走馬みたいになっているんじゃないかと思ってましたけど、思ったより快適ですね。 私なんかブルカをずっと着てたくなった(笑)。サングラスをかけるような感じですね。 自分の表情などを見せずに世界は全部見えるという感じです。 非常に開放された感じがしました。だから着用を義務付けても良い というわけではありませんが、難しいところです。 ブルカがすべて抑圧の対象としてだけ受けとってもよいのか。

1-2、内戦と難民

 内戦が20年以上続いたと言われていますが、 内戦が20年続くというのはどういうことでしょうか。 これもやはり想像力が必要だと思います。 内戦が20年続くことによって250万人が死んだと言われています。 つまりこの20年間に5人に一人が死んだ、人口の20%近くが死んでいる。 マフマルバフは丁寧に計算をして一時間に12人死んでると言っています。 だからこの講演が始まって終わるまでに12人死ぬということになります。 しかも一時間のうちに60人が難民になるわけです。

 内戦というのは英語で言うとcivil war、つまり市民戦争です。 市民と市民が殺し合うということですね、泥沼の戦いになります。 この中でたくさんの地雷が撒かれました。 私は地雷をめぐる政治についても研究していまして、 学生に質問されたときにアフガニスタンが一番ひどいと答えた理由は 地雷を追っかけていくとアフガニスタンが飛びぬけてひどかったんです。 アフガニスタンという国は地雷撤廃条約(1997年)の未締結国です。 未だ入っていないのはインド、中国やアメリカといった大国とアフガニスタンなどです。 アフガンの空爆というのは実は地雷全廃条約に入っていない最も豊かな国が、 地雷全廃条約に入っていない最も貧しい国を空爆したということになるわけです。

 私は地雷の数や被害というものから追いかけていってアフガニスタンは 一番ひどいと感じていましたので、そういうふうに言ったんですけども アフガニスタンの地雷は本当にひどい状況ですね。 20年も内戦をしているのでどこに埋めたか忘れてしまう。 そうすると取り除くこともできない。そういう中から、 もともと遊牧民ですから難民がたくさん出る。600万人から700万人と言われています。 これは私も驚いたんですけど、アフガニスタンの人口が2000万人ですから 30%が難民になるという恐るべき事態です。 それからこれも重要な事実ですが平均寿命が30歳から40歳くらい。 これはランチタイムのときにある先生と話したんですけども、 おそらく世界で一番貧しい内にランキングされるのではないでしょうか。 受難指数という指数を民間会社が作っていてどれだけ受難が高いかという 指数なんですけども、アフガニスタンはトップですね。

1-3、戦争経済とブラックマーケット

 アフガニスタンは戦争経済なんですね。 これは地雷を含めてみんなが小火器、小銃を持っています。 これはアフガンにある唯一のいわゆる「近代的」なものです。 現代的なものでアフガンにあるものは兵器なんです。 しかも現地の人々にとって、兵器の意味は財産なんです。 どういう財産かというとこれによって仕事にありつける。 それをもっていることにより軍隊に参加することができ、給料がもらえる。 だからみんな金をある程度ためると兵器を買うんです。そういう軍事経済が浸透しています。 そのような兵器がどこからくるかというと、 冷戦期に作られて余った兵器が大量に流れているわけです。

 それからもう一つ重要なのがブラックマーケットです。これは主に麻薬ですね。 アフガニスタンは有数の麻薬産出国です。これはマフマルバフが言っていることで 僕自身は確認していませんが、全世界の麻薬取引の額は4000億ドルですが そのうちの800億ドルがアフガニスタンの麻薬だそうです。 しかし麻薬の値段というと売人から売人へ渡ると桁が違って高くなっていくわけですね。 そうすると、もともと作っている国に入る収入というのは非常に少ないわけです。 アフガンに純粋に入る額は5億ドルです。 全国民で5億ドルの麻薬収入があってこれが唯一の外貨獲得方法になっています。 アフガンの人たちは自分達では麻薬を使いませんが イスラム法に乗っ取って外の人には売っていいということになっているらしい。 このように、まあ貧乏なんですね。お金がない。仕事もない。

 そこで映画にも出てきたように学校というものの意味が 我々とはちょっと違うんですね。学校は神学校ですけどもここに入る ということは給食を食べられるんです。それから寄宿舎に泊まれるわけです。 だからこれは基本的には食い扶持を維持するということになります。 だから映画である少年が言葉が分からなくて追い出されますけど、 外に人が待っていて代わりに別の少年をまた新しく入れるわけです。 新しく入った少年の親は一安心です。子供が少なくとも給食を 食べられるということになりますから。

 そうやって見ていくと――映画を観ても事実を見ても――気が滅入ることばかりです。 つまりアフガニスタンには世界の問題の全てというか、 核兵器を除けばほとんど全てあるんじゃないかという気がします。

2、世界の根源的な非対称性(「構造的暴力」)について

 アフガン空爆以降わかってきたことは、当たり前ですけど世界はすごく、 想像を超えて根源的に非対称なんじゃないか。 私たちが思っているよりはるかに貧乏な人たちと豊かな人たちの格差が 開いているのではないかということが、特にこういう映画によって露骨に分かってきた。 よくグローバル化、グローバル化と言いますけど、 グローバル化には二つの側面があると思います。 一つは明らかに90年代がそうですけど貧富の格差を世界中で拡大したということ。 もう一つはその格差がわかりやすくなった。 つまり我々はすぐさまそういった格差を理解できるようになってきた。 そういう両面があると思います。

2-1、アフガニスタンと国際社会

 この映画は主人公がヘリコプターに乗って空から降りてくるシーンから始まります。 私自身の見方ですけどもこの映画において空というのは非常に象徴的な意味があると思います。 つまり空というのは届くことのない「天」ですよね。 つまりアフガンにとっては国際社会と同じようなものです。 国際社会から主人公の女性が降り立っていくわけです。 そしてそこには時には笑ってしまうようなこともありますが、 悲惨な現実がたくさんあるわけです。

 そこで有名なシーンを思い出してください。 赤十字等々が義足を作って渡したりしますけどその後義足が空から降ってきますよね。 援助というか支援というか、義足が空から降ってきて それを松葉杖をついたりつまずいたりしながら追いかける という有名なシーンがあります。つまり、義足は空から降ってくるんですね。 実際にそうだとは思いません。しかし空から降ってくるんです、こういう恩寵は。 アフガニスタンというのは自力救済ではどうにもならない メチャクチャな状態で国家も普通の社会もみんな壊れている。 唯一空――国際社会――が手を差し伸べるしか仕方がない状態なんですね。 しかし頼りとなる国際社会もマフマルバフが言っているように 非常に限られた役割しか果たしていない。せいぜい義足を作って渡すくらいです。 いくつかのNGOは地雷の状況を見て尻尾を巻いて帰ってしまう。 こんなの取り除くことは不可能だということで帰ってしまうわけです。

 しかし、いくつかのNGOはずっと粘り強く滞在しています。 たとえば最近日本でも中村哲さんというお医者さんがいます。 彼は「ペシャワールの会」というNGOを作って20年以上ずっと アフガニスタンに滞在して医療活動を行っているんですね。 この人が『アフガニスタンの診療所から』という本を筑摩書房から出しました。 これは非常にお勧めでどれか一冊と言われたらこれを薦めますけども、 この中で中村さんは非常に激しく怒っているんです。 何に怒っているかというと、国際社会に対して怒っています。 それから国際機関に怒っています。それから軽薄な援助に怒っています。 中村さんは私は一介の医者だと言いながら世界を論じるんですけども、 一介の臨床医と言いながら彼はほとんどアフガニスタン人になっています。 アフガニスタン人の気持ちから世界を告発した本で非常に刺激的だと思います。 このように国際機関の役割というのは空からきてまたすぐに帰ってしまう、 そういうものがずっと続いてきたと断言できるかもしれません。

 この映画で私自身一番印象的だったのは難民がアフガニスタンに 帰還していくわけですけども、家(アフガニスタン)に帰ると学校に行けませんから、 その前に最後の学校ということで先生が子供達にこれから希望があるようにと教えるシーンですね。 「たとえ塀は高くても、空はもっと高い。いつか世界が助けてくれるでしょう。 それでも助けてくれなくて希望を失ったら自分が虫になったと思え。 虫になれば狭い家も無限の広さを持っているように感じるだろう」と先生は教えるんです。 先生はそれぐらいしか教えられないということなんです。 つまり希望は空から降ってくるしかないという状態なんです。

2-2、歴史としてのアフガニスタン――近代主義という「空爆」

 私自身も恥ずかしながらこの機会にいろいろ調べてみたんですが、 歴史としてのアフガニスタンをひも解いてみると、 アフガニスタンは250年前にイランから独立するんですが、 重要なのは1979年のソ連侵攻です。これは冷戦の真只中の時期ですから、 もちろんアメリカはアフガニスタンのレジスタンスといいますか ソ連に対抗する人たちに武器を供与します。 みなさんもご存知のようにタリバンに擦り寄っていったオサマ・ビンラディンの アルカイダはアメリカがある時期に支援をして育成した団体なんです。 まあそれが今ではアメリカの目の敵になっているわけですけども。 つまり冷戦期に一つの戦場になって、冷戦の道具になっているわけです。 それでソ連が撤退した後は石油もないですから国際社会は無視するわけです。 そこにムジャヒリン政権ができるんですが内戦は全く終わらなかった。 これもよく言われていることですが少なくともタリバン政権はこの土地に治安をもたらしました。 タリバンはパキスタンの傀儡政権ですけども、 人と人とが殺し合う無茶苦茶な内戦の中で治安をもたらした。 これは必要最低限の欲求を満たしたということで我々も抑圧政権だと言ったりしますが、 タリバン政権というものを一元的に判断することはできないと思います。

 そこでちょっとセンセーショナルですけども 「近代主義という『空爆」」というふうに書かせていただきました。 マフマルバフも指摘しているようにアフガニスタンの歴史をずっと見ていると、 我々の知っている近代化というのはことごとく非常な違和感を持って迎えられました。 しかもあまりにそれが急激だったために常に土着の文化から反抗されてきました。 それでますます伝統社会の論理が強化されていくという逆説がアフガン社会にあります。

 20世紀の初頭(1919年~28年)一時アマー・ヌラーという王様が 近代主義に基づいて近代国家を作ろうと試みました。ロールスロイスに乗ったり、 一夫一妻制を取り入れたり、ブルカを脱げと言ったり、 男はみんな背広を着ろと言ったりして。ですが完全に浮いてしまって、 伝統社会から総スカンをくったと書いてあります。 つまり近代主義を上から――空から――押し付けることによって非常に強固な土着の、 山と山の間にある伝統社会が打ち返してきた歴史がある。 だからアフガン人はソ連に勝ったと言いますけど、あれはアフガン人が勝ったんじゃなくて アフガンのそれぞれの部族が自分の村にやってきたソ連軍というよそ者 (=近代主義)に対して戦って勝ったにすぎない。 我々の歴史的なイメージからするとちょっとずれるかもしれませんが、 アフガニスタンは近代主義に対するアレルギー、抗体を常に培ってきたわけです。 だからそういうところに国際機関が出かけていって援助だ、人権が大事だ、 と言っても浮いてしまうわけです。これは中村さんが特に怒っていることですね。

 本の中のエピソードで面白いのがある女子学生から ペシャワールの会に電話がかかってきた。そして一週間時間が 空いたのでボランティアがしたい、アフガニスタンへ行ってもいいか という電話があったらしいんですけども、中村さんは大変怒って まずアフガニスタンに入って事務所に行くまでに一週間かかるぞ、と。 つまり日本人の国際貢献やボランティアというものはそんなものかと、 まあこの人はほとんどアフガン人になってますから、怒ってます。

 そのようにして考えていくと私たちはついこの間戦争に参加しましたが ――テロ対策特別措置法なんかを作ってアメリカに協力して対テロ戦争を 戦ったわけですよ、日本人は。参戦したわけですから、 "ショー・ザ・フラッグ"したわけですから――そうすると何と戦っていたのか、 ということになります。

2-3、21世紀の戦争――「テロリズム」と「空爆」

 これから起こる「戦争」というもののイメージを変える必要があると思います。 つまり私たちが持っている戦争のイメージは実は古いんじゃないか。 せいぜい先の大戦(第二次世界大戦)止まりです。

 実は今アメリカの世界戦略、軍事戦略を少し見るだけでも これから起こる戦争は全然違うんじゃないかという気がします。どう違うか。 これは一方でテロリズムがずっと続く。一方で地球のどこかで空から爆弾の雨を降らせる。 これがずっと続く。ブッシュ政権は今後十年から二十年戦争を続けると宣言しています。 今度はイラクだと言ってますが、やるかもしれません。 そこで我々のイメージを変えるとはどういうことかというと、新潟は平和です、 今のところ。つまり戦争がどこかで起こっている。その戦争は二つに分かれる。 血みどろの内戦が続く、あるいは都市の中でテロが起こる。 非常にプリミティブな戦争と言いますか人と人とが顔を見合わせて殺し合う戦争と、 もう一つは空から爆弾を降らせて数として人を殺していく戦争、これが同時進行していく。 これはどういう世界かと考えるとイスラエルとパレスチナの世界ですね。 イスラエルとパレスチナはずっとインティファーダで石を投げて身体を 張って自爆テロをやり、そのたびにイスラエル警察や軍が来てミサイルを 撃ったりするわけです。こういう非対称的な戦争というものがずっと続く。 そういう予感がします。

 ジョージ・オーウェルの『1984年』という有名な小説があります。 これはSF小説で1948年に書かれたものですが「48」を逆にして 「84」年にはこういう世界が生まれるということを描いたものです。 最近私も読み返してみてこのジョージ・オーウェルが描いた近未来世界に おいて戦争はどういうものか、ということを読むと鳥肌が立つんですね。 今まさに起ころうとしている戦争をそのまま描いている気がします。 ぜひお読みになって下さい。簡単に言えばこの世界には「平和省」というものがあるんですね。 「平和省」というのは戦争をする省なんです。 そして「戦争は平和である」というスローガンが掲げられています。 つまり平和を維持するということは戦争をするということなんです。 しかも面白いのは国民は一度も戦争を見たことがない。 しかし戦争はずっと続いているらしいんですね。 だから国は国民一人一人を個人情報じゃないですけども、監視しなければいけない。 戦時体制が敷かれている。しかし戦争はしているらしいという なんだかよくわかんない世界がずっと続いているわけです。 私はこのジョージ・オーウェルの「戦争は平和である」というおかしな世界、 これが21世紀に続く戦争なんじゃないかと思います。

 もっとわかりやすく言えば、戦争はビジネスである。 通常の日常的政治の一環に組み込まれている。 戦争が通常国会のように定期的に行われる。 思い返せばアメリカという国は30年くらいの周期ででかい戦争をやるわけです。 その度ごとに国内のいわゆるベトナムの残党とかそういうのをどんどん退治していくんです。 僕はアメリカの戦争にはそういう機能があると思います。 僕はアメリカが起こす戦争というのは国内的に見ていく必要が あるんじゃないかと思います。そのように非常におかしな、 戦争と平和が併存していくような世界の中で―― これはアメリカの軍部が考えていることですけども―― これからは暴力の問題を考えていくときにはむしろ弾丸が飛んだり人が 血を流して死んだりということ、これももちろん暴力ですけども、 それを見せたり見せなかったり、あるいはそれを正当化したり しなかったりということの方がはるかに重要な軍事的な目標に なりつつあるのではないかと思います。戦争の本質といいますか "はらわた"はむしろ核兵器やミサイルが何発あるかではなくて どのように情報を使って国民に戦争を納得させるか、 国民にどういうふうに戦争を伝えるか、そこに重点が移っているんじゃないか、 移っていくんじゃないかと思います。

3、構造的暴力を支える「文化的暴力」について

 世界は徹底的に不平等で見捨てられる地域がある。 それを時々空爆したりして暴力を加える。それをいい事だ、 正義だというふうに正当化する暴力があるのではないか。 これに注目していかなければならないのではないか。 「文化的暴力」というのは平和学の言葉で直接的あるいは構造的暴力を正当化する、 レジティマイゼーションする暴力のことです。

 もっとわかりやすく言うとこれは実際に戦争が起こる前に 世界が非常にわかりやすい悪と善に分かれ、平板な世界像が提示されます。 必ずそうだと思います。たとえばアフガニスタンに空爆する前に テロリスト支援国家とかあるいはテロリスト、テロリズムといった言葉が出てくる。 そしてこの世の中は文明とテロリズムの二つに分かれるかのように描く。 そういうことが暴力の本質になってるんじゃないかと思います。

3-1、言葉の問題

 人道という言葉は怪しい。人道的介入(humanitarian intervention) というのは別の言い方をすると人道的に人殺しをするということです。 武力介入するということですから。これは分裂してしまいますよね、 人道的に人殺しをするんですから。先の「戦争は平和である」じゃないですけども。 こういう言葉はたくさん使われますよ。 最近の周辺事態法ですとか武力攻撃事態とかああいうのはみんなそうです。 おかしな言葉がどんどん出てくる。それから人権。これは人道的介入に使われます。 それから援助。この言葉も気をつけなければいけない。それからテロってなんでしょう。 定義も未だに決まっていません。 テロっていうのは穿った定義をしますと強者にとって気に入らないヤツラのことです。 強者にとって気に入らないヤツラはみんなテロということになります。 そしてテロといったん認定されれば殺されてもいい人たちということになります。

 それから悪の枢軸ですね。これはブッシュの言葉です。 それからイスラム原理主義という言葉が新聞に出てきますけども、 これもよく分からない。僕自身もコーランをちゃんと読んだこともないし、 イスラム原理主義なんてのも分かったようで分かっていない。 実際イスラム原理主義と一言で言ってもいろいろあるわけですよ、いろんな宗派が。 こういう多様性に関して、全く無頓着である。

3-2、マスメディアが作る世界

 マスメディアが作る世界というのは実は複雑さや多様性というものを 全く抜きにしたサイド(側)の思想です。これはしょうがないですね。 どちら側に立つのか、そういうことが強調されていくことにより世界が単純化されていく、 というのがマスメディアの成立期からあると思います。 私もある新聞社からインタビューされたときに結局先生のお話は どっち側なんですかと聞かれるわけですね。 それでどっちかというとこっちかなと言うと、 新聞の中ではこっちというふうに書いてあるわけです。 つまりニュアンスとかクレイゾーンというものが全く反映されない というのがマスメディアの特徴であると思います。

 ここでもう一冊本を紹介したい。『国境なき医師団は見た』という本で、 これも非常に重要です。 この本はこの前ノーベル賞を受賞した国境なき医師団が書いたものですが、 彼らも非常に怒っています。何に怒っているかというと 世界中の色んな紛争が国際報道されますけど、現場に行ってる人たちから見ると、 それらはみんな嘘っぱちで国際ニュースは本当にけしからんということです。 この本によれば、国際ニュースになるには法則がある。 4つの条件を満たせば国際ニュースになれるというんですね。 逆に条件を満たさなければ国際ニュースにならないと彼らは言うわけです。 これは非常に言いえて妙といいますか重要なんで申し上げます。

 一つは絵になるということですね。絵にならないとダメなんです。 もっと言うとイスラム教徒が口ひげを生やしてイスラム教徒の服を着て 「私は被害者です」というのは絵にならない、というふうに彼らは書いています。 彼ら(イスラム教徒)は加害者でなければならない。 被害者は常にいたいけな少女とか動物とかそういうものでなければいけない。 二つ目は大きな戦争や紛争は一地域でしか起こってはいけないということです。 同時に二つの重要な事件がおこってはいけないんですね。 三つ目は客観性を装わなければならない。 現地の人が生で言うんじゃなくて国際機関の人やNGOの人が こういう人たちがいますというのを客観的に説明していないと 国際ニュースにならない。最後が重要ですけど無垢な被害者が必要。 これは有名な話で皆さんもご存知かと思いますが湾岸戦争のとき 真っ黒になった鳥が出てきたり、病院の子供達がみんな殺されたというのが出てきました。 これは少女がテレビの前で証言をしたわけですね。 女の子が出てきて、イラク軍によって病院の人がみんな殺された、とか言うわけです。 しかし後々その少女は在米のクウェート大使の娘だったということが 判明してしまうんです。つまりクウェートに侵攻したのはイラクですから イラクを国際社会から孤立させために芝居をうったんですね。 つまり少女であるということが大事であるということです。

 今回のアフガン空爆でも不思議なことがいっぱい起こりましたね。 オサマ・ビンラディンのビデオが出てきたとか、いろんなことがありました。 いまだに彼はつかまっていませんけども。 とにかく私はあれは芝居としてみる必要があると思うんですね。 一連の9・11以降の出来事を理性的に考えるためには、 現実であればあるほど映画を見るように構成やキャストや配役は どうなっているのかから見ていく必要があると思います。 マフマルバフはこう言っています。 「マスメディアが伝えるのは満腹した人の痛みだけだ」と。 非常に厳しい言い方ですね。本当の痛みというのは伝えないんだと言っています。 ワールドカップ、ディズニーランド、ハリウッド映画、CNN・・・。 これらもマスメディアの例ですね。全部が全部悪いと言ってるんじゃないですが。

 それからマクルーハンというメディア論の人が「地球村」と言いました。 メディアが発達してグローバル化が進めば地球村ができると言いました。 しかしマフマルバフはそれは嘘っぱちであると言います。 実は見えない影の部分というのがたくさん出てくる。 メディアが発達すればするほどそういう部分が出てくる。 マフマルバフの本のタイトルにもなっていますが、 バーミヤンの仏像破壊という問題がありました。 僕も本当に鮮烈に覚えてますが、バーミヤンの仏像がガラガラと 崩れていく映像が何度も流れました。僕もあれはひどいな、 もったいないなと思いました。 そして平山郁夫さんなどが世界の遺産を守れと言ってました。

 私はそれに共感しましたけれども、考えてみれば、 3000とも4000とも言われるアメリカの空爆の誤爆のシーンというのは 一回も出てこないんですね。これは一体どういうことか。 マフマルバフという人はこの本で実はこのアフガニスタンの仏像は タリバンに破壊されたのではなくてあまりにもひどいアフガニスタンの状況を 世界は全く無視していることに恥ずかしくて仏像は、 大乗仏教は人々を救うことが目的ですから、 救うことのできない仏像があまりにも恥ずかしくて自ら崩れ去ったんだと言っています。 まあ詭弁ですけども、一つの非常に重要なメッセージだと思います。 お前ら何してんだ、崩れ去った仏像の下には飢えている人たちがたくさんいるんだ、 というメッセージだと思います。

3-3、「国づくり」「国家の再建」?

 まさに今「国家の再建」というふうに新聞に載っているものが進んでいます。 今はアフガニスタンはNGOの銀座と言いますか、NGOがたくさん出かけていってます。 ただ、「国づくり」あるいは「国家の再建」というのは100年の計です。 本当に国際社会はこの国というかこの地域を、この人々を少なくても20年、 30年見守っていくのかどうかということで私は甚だ不安です。 本当にみんな忘れてしまうんじゃないかと思います。 たとえば来年みなさんと再びお会いしたときに 「そういえばアフガニスタンってどうなりましたか」ということになりかねない。 新聞から消えていくんじゃないかという気がします。 まあこれは沖縄も同じですけれども。

 それでロヤジルカというのが今テントで開かれていますが、 いわゆる部族社会の集まりですから、 アフガニスタン人と我々は呼びますけど、そんなものは存在していません。 一人一人はタジク人でありパシュトゥン人なんです。 だからアフガニスタンという一つのナショナリティはまだ生まれていない。 マフマルバフはまた厳しいことを言います。 「ひげがネクタイに変われば問題は解決するのか」と。 つまりアフガニスタンにはひげを剃ってネクタイをした人が増えた。 しかしそれで一体何が変わるんだとマフマルバフは言うわけです。 これは非常に強烈なと言いますか、重要な指摘であると思います。

4、「構造的暴力」を漸減するために

 最後に映画やいろいろなものを通じて見てしまった、 こういった世界の徹底的な非対称性、構造的暴力、構造の中に含まれた暴力―― ある地域に生まれたことによって絶対に字が読めない、絶対に大学に行けない、 飢え死にしてしまう、35歳くらいまでしか生きられない、 これは構造に仕組まれた暴力であると平和学では考えます―― をどうしたら漸減できるのか、少しずつ減らすことができるのか ということを我々は考えていかなければいけない。

 そのときの一つとして、本当に追い詰められたとき人間は 革命的暴力というものを使います。私はこれはしょうがないと思います。 追い込まれた人が自爆テロに走ることについて責めることはできないと思います。 もちろん無知やいろいろな扇動によって起こってしまうのは 悲しいことでこれはやめさせるべきですが、我々が自爆テロというときには おそらく無知蒙昧なというか、もうちょっと教育を受ければ そんなことはしないのにというニュアンスを私は感じます。 しかし私はそういうふうに思うべきではないと思います。 少なくとも私がパレスチナにいて小さい頃からそこで育てば 爆弾を持って出かけていかないとも限らないというふうにいつも思います。 パレスチナで死んでいく若者についてとやかく言う権利はないと私は思っています。

 しかし「豊かな社会」に住んでいる我々はどういうふうに していかなければならないのか。私が今日みなさんにお話したいのは こういうことなんです。今戦争や暴力の本質は文化的なものに変わりつつある。 そうであれば逆に先進国に生きる我々は戦う場所を持っていると思います。 正当性(legitimacy)と言う舞台が新しい戦場になると思います。どういうことか。 政府あるいは世界がある戦争ある暴力をするときに、これは正当だというでしょう。 そこに我々市民はNOと言うことができます。それは正当ではないと言うことができます。 それは非常に強い力だと思います。 弾丸よりも自爆テロよりも強い力になるのではないかという希望を私は持っています。 ある暴力行為が行われている時にそれは正当ではない、 正しくないという運動や問いかけはできるのではないかと思います。

 私たちはいわゆる見世物として世界というものを見せられています。 しかしそういう観客というか裁判官的に世界を見世物としてただ 単に消費するのではなくて、むしろ当事者としてそこに参加する。 想像力と洞察力によってそこに参加するということが必要なんじゃないかと思います。

 先ほどのペシャワールの会の中村医師の言葉を引用したいと思います。 アフガニスタンをどう理解するかということにおいて中村さんが 言っているんですが「ここには、私たちが「進歩」の名の下に、 無用な知識で自分を退化させてきた生を根底から問う何ものかがあり、 むきだしの人間の生き死にがあります」。 つまり中村さんはアフガニスタン人を愛してますね。 ある文化を理解するというのはどういうことか。 これはやはり内在的に理解することではないかと思います。 本当に難しいことですけども、 僕はそういった意味ではマフマルバフには不満を覚えるんです。 ブルカは全部前近代的なもので封建的のものの象徴かというと そうとも言い切れない部分としかしそうとも言える。 そこのクレイゾーンというか、すごく悩ましいわけです、 グローバル化と伝統社会というのは。 その矛盾そのものを引き受けていくということが大事であると思います。 「むきだしの生」と「むきだしの死」というのは私の中で残った言葉です。

 もう一つ国際協力とは何かというのを考えるために 中村医師の言葉を引用したいと思います。 「私はたんに日本人としての矜持の残滓をひきずりながら、 ただ家族を思うように、アフガニスタンとペシャワールの仲間のことを 考えていたにすぎない」。この前文には中村さんは「私は国際協力なんて分からない」 というんですね。私はこの言葉に非常に考えさせられたわけです。 私たちは国際貢献、PKOと言いますけど、国際協力と言った場合に 軽薄なんじゃないかという気がします。 そうではなくて中村さんに言わせれば私はまず日本人である、 その日本人としての矜持を少し引きずりながら、 しかし自分の友人や家族を思うように彼らのことを心配するだけである、 この感性が非常に大事なんじゃないかと私は思います。 つまり「人間」という言葉しか最後には残らないんですけども、 「人間として」という次元ですね。これが非常に重要なんじゃないかと思います。

5、さいごに――「リアリズム」の回復

 私たちに今必要なのはリアリズムなんです。 現実主義であってじつは理想主義ではないという気がします。 日本の理想主義はズタズタになって憲法も改正されるかもしれない。 しかし私たちに必要なのは世界はどういう素顔をしているのかということです。 顔、素顔です。それをまず日本人が理解することが一番今ラディカルではないか、 重要ではないか、そう思います。小ざかしい議論とかそういうのではなく、 どうなんだ、いま地球の裏側はどうなっているんだということをしっかりと 見つめること、これが日本人を正気にさせることなんじゃないかと僕は思っています。

 今回この講座を考える上で非常に参考になった 佐藤忠男さんという映画評論家の『映画の真実――スクリーンは何を映してきたか』 という本があります。読んですごく感銘を受けました。 一人の映画人として映画というものは一体何を映すのかということを 原点に返って佐藤さんは考えてらっしゃいます。 私もそういう意味では世界の真実をみるとはどういうことなのか。 ただ単にドキュメンタリーにすればいいのか、現地の人を使えばいいのか。 そうではない。リアリティとは何かということです。 世界の素顔や現実とは何かということをこの講座でみなさんと考えていければと思います。

 つたない話ですがこれで終わりにしたいと思います。 どうもありがとうございました。

<参考文献>

* モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』現代企画室 2001年

* ドリス・レッシング『アフガニスタンの嵐』晶文社 1998年

* 中村哲『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 1993年

* 長倉洋海『子どもたちのアフガニスタン』岩波ブックレット 2002年

* 国境なき医師団編『国境なき医師団は見た』日本経済新聞社 1994年

* エドワード・W・サイード『戦争とプロパガンダ』みすず書房 2002年

* ジョージ・オーウェル『1984年』ハヤカワ文庫 1972年

* 佐々木寛「現代戦争の位相――グローバルな『全体主義』と『新しい戦争』」
(『歴史地理教育』2000年8月号)

* ICBL、Landmine Monitor Report 2001:Toward a Mine-Free World,2001,