2004年に見た映画
良い映画だと思いませんでした。「ついに韓国映画もこういうものを取り上げることができるようになったか」という実感が、この映画に対する評価に入りこんでしまうことはわからないでもない。しかし韓国がどのように民主化していくかということと、映画自体の評価は別なんじゃないか。
日本映画にもタブーはあり、アメリカ映画にも描かれてない領域はある。そうしたタブーを少しでも消していくことは映画人の義務だと思うし、その行為自体は尊敬したい。監督がこの題材を選んだことも評価したい。この映画が完成したことが民主化の度合いを示しているし、またこの映画が民主化を促進しているともいえる。それはそのとおりだと思う。
でもやっぱりつまらない映画だと思う。昨今の韓流ブームのなか、こんなつまらないものまで評価していいのか。そもそも登場人物たちがなぜああいうことをするのか、まったく伝わってこない。アン・ソンギも好きな俳優だけれど、これは駄目。
この映画を評価するかしないか。それはただ一点にかかわっている。走るゾンビ。
手を中空(なかぞら)にぶらぶらさせつつ、どこ見てるのかわからん風情でのそのそ歩いてくるのがゾンビの常道。ところがこの映画のゾンビ、走ります。たったかたったか。走る、走る。これをどう思うか。ここでこの映画に対する評価もまっぷたつでしょう。こんなのゾンビじゃないと怒るか。それともゾンビ映画の新技、新機軸として許してしまうか。
僕は後者でした。そういう意味でそこそこ楽しみました。
これはゾンビ映画ですからね。一般の映画ファン(がどういうものかはおいておいて)が求めるものとはまったく違うわけです。その意味でゾンビ映画というジャンルは数ある映画ジャンルのなかでも非常に特殊で、考えてみれば「動物映画」とか「ポルノ映画」とか「ディズニー映画」とか、それらとならべて「ゾンビ映画」とくくっても可なほど特殊なものだと思う。
そもそもスプラッターやゾンビを見に行って「残酷だから嫌い」っていう感想を持つのは御法度でしょ。ブルース・リーの映画を見に行って「人を殴るシーンが多い映画、嫌い」と言ってみたり、松田優作の映画を見に行って「主人公が偉そうだから嫌い」と言ってみたりしたらいかんのと同じですよ。ゾンビを求めてゾンビ映画を人々は見に行くわけです。本作はそのなかではよくできているほうだと思いました。
そのゾンビ映画というジャンルを確立した George A. Romero の三部作、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』。原題では Night of the Living Dead (1968), Dawn of the Dead(1979), Day of the Dead(1985)となります。僕自身は1作目は未見ですが、この<夜→朝→昼>と続く三部作のなかで2作目の『ゾンビ』は必見だと思う。一般映画として考えても、どこをどのようにほめて良いかはわかりにくいが、見終わった後の不思議な感動(という表現に問題があれば、不思議な余韻か?)は異質。無人の(といってもゾンビはいるが)ショッピング・モールを舞台にしたこと自体がアイディアの勝利だし、そのストーリーの展開もすばらしい。
で、この『ドーン・オブ・ザ・デッド』はその名作のリメイク。当然ながらオリジナルにはおよびません。しかし適当にロメロのシリーズのエッセンスを用いながら、新しさも出しつつ観客を楽しませてはいると思う。
ただ、ショッピング・モールの使い方がぜんぜんだめ。オリジナルのあのだだっぴろい空間の描き方の秀逸さがまったく出てない。ラストもちょっと説明しすぎかなあという気はした。個々のキャラクターも主人公の女性以外は弱い。などと、ついついけなしてしまうのも、あまりにロメロの『ゾンビ』がよくできているせいですね。
たったひとつの命を捨てて
生まれ変わった不死身の体
鉄の悪魔を叩いて砕く
キャシャーンがやらねば誰がやる
馬鹿みたいだけど、かっこいいでしょ。これを納谷悟郎が最初のナレーションで渋く言うわけですよ。アニメ版『新造人間キャシャーン』の話ですが。吉田竜夫と天野嘉孝がキャクラターデザイン。タツノコプロの傑作のひとつだと思う。
ところがその名作の実写映画版。アニメのかっこよさの対極にあります。この名台詞もまったく出ません。予告編では使っていたのになあ。だまされました。1500円どぶに捨ててきました。でも私に謝る必要はない。タツノコプロに謝れ。
映画のオープニングのナレーションも納谷悟郎だったので少しは期待したのですが、もうそのナレーションの内容でがっくし。しょっぱなからみんな、だっさださ。それが意味もなく長く続く。ここまでかっこ悪い映画をどうしてだらだらと2時間半も作るかなあ。
僕のようにアニメを見てた世代が予想する最悪パターン。気取っただけのくそ面白くもないCGを背景にキャシャーンがうだうだとアイデンティティに悩むだけだったらどうしようかなあと思っていました。200パーセントそのまんま。
まずびっくり。キャシャーンが闘いません。戦闘シーンもちょこっとはあります。でもしょぼしょぼ。闘わないキャシャーンってなあ。いったい何なんだ。先日見た「絵をほとんど描かないうえに構図まで素人女に直されてウハウハ喜び、なおかつ彼女を好きになるロリコン阿呆のフェルメール」ってのにも驚きましたが、この「非・戦闘人間キャシャーン」にもあきれた。
そのキャシャーン、当然のように全編すっごくかっこわるい。人間のときは全体主義国家にあっさり洗脳されてる脳味噌筋肉青年。そいつが後になって反戦を説いてもなあ。キャシャーンになってからはいぢいぢしているだけのひょろひょろ男。全然、新造細胞に見えません。抱える苦悩にしてもアニメ版のキャシャーンのほうがはるかに深刻だったし、共感できるものだった。
肝心のフレンダーも出てきません。同じ名前のみすぼらしい犬ころがちょこっと登場。アニメでは「一匹でロデム・ロプロス・ポセイドン」をやっていたフレンダー。たしかにあんなもん実写にしたら笑うだけになっていたかもしれないが、それをかっこよく見せるのがプロでしょう。フレンダーのいないキャシャーン。アニメでは強烈な印象を僕らに与えていたお母さんも、映画版ではただの人。
殺された愛犬の脳を犬型ロボットに移植して主人公が連れていたり、これまた殺された(んだったか?)母の記憶データが白鳥型ロボットに移植され、それを敵ボスがペット(!!)にしてしまうが、母(鳥ロボットですけど)は自らの危険も省みずホログラムの姿を借りて息子に敵側の情報を漏らそうとする……などというアニメ版の設定のほうが、映画よりもはるかに興趣に富む。
唐沢寿明演じる敵ボスもよわよわ。これだったらまだアニメ版のブライキングボス率いるアンドロ軍団のほうが、その名前の脱力感をのぞけば格段に敵として良。公害処理用アンドロイド(早い話が人間の奴隷ですね、どぶさらい専門の)が偶然の事故のために自我に目覚め、その日から人類に憎悪の炎を燃やしはじめる、というアニメの設定に映画版敵ボスはまったくおよばず。
なんといっても唐沢はニューヨークで見た蜷川の『マクベス』で、言葉もわからんだろうアメリカ人に嘲笑されているのを見てしまったからなあ。日本語の台詞がわかる私らにはいっそう悲惨だった。一緒に演技していた大竹しのぶや六平直政がかわいそうだった。軽いタッチのコメディなんかだとうまい人なんだろうけれど、マクベスはもちろん、こんな悪役も向いてない。唸ったり叫んだりすればするだけ浮いていく。
その唐沢のほかにも寺尾聰、樋口可南子、大滝秀治あたりも出ています。でもこの映画を見てて今さらのように実感したのは、映画もアンサンブルだということ。どはずれて下手な役者たちと一緒に出ると、いくら寺尾や大滝クラスでも映画全体は救えないということがよくわかりました。演技指導という概念がなかったんだろうか、この監督には。
画像もオリジナリティは低い。最悪なのは敵の実働部隊のロボット兵の動き。軽い、軽い。『みんなのうた』にでてくる明るいアニメみたい。アトムの敵ロボットのほうがまだ怖いぞ。もしかして客に笑ってほしかったのか。
他の画面はいろんなものからのパクリ多し。それも下手なパクリ。うまければまだ許すが、ぐだぐだ。力なし。CGも薄い。ぺらぺら。さらには妙に古くさい。レトロというよりは、ただ単に情けない古さ。それを「感性と想像力を刺激する豊潤なイメージを体感する映像叙事詩」(オフィシャル・サイトから)だとはなあ……。だいたいこれを見て「頭で考えずに心で見ましょう」とか誉める自称映画ファンが出てきそうだが、はっきり言ってそういう人たちは見てきた映画の数が圧倒的に少ないのだと思う。頭の中でも心の中でもなんでもいいが、持っているデータ量が少ない。失礼な言い方で申し訳ない。でもそうした誉め方しかできないのは悲しいぞ。自分の感性をこんなゴミ映画で安売りしていいのか。
それから、面白いことにこの映画、ストーリーがありません。ある状況をえんえんと説明するだけ。それにおちゃらけ「反戦思想」をコーティング。阿呆左翼でも馬鹿右翼でもお気楽市民主義でも、ここまでひどい戦争観はもってないぞ、たぶん。脚本書いた人たちがいかに戦争や平和などについてまじめに考えてないか、3秒でわかってしまう。「闘うことではなく、理解しあうことだったんだ……」だとお。お前ら、古代守と森雪かあ? イスカンダルまで行って二度と帰ってくるな、ばかもの。
ストーリーがない上に、各場面の台詞や演出も説明不足。というよりは脚本も演出も単に下手なだけなんですが。ともかくそれぞれの登場人物が何をやっているのかわかりません。終盤、特にめちゃくちゃ。結局、登場人物全員を顔見知りってことにしてみました……ってなあ。誰かこの暴走を止める奴はいなかったのか。
この雑さ加減、80年代東京演劇バブルのころの「近未来SF都市もの」を思い出しましたです。劇団第三エロチカとかね。そのすごくできの悪いものとおんなじテイスト。この映画全体にただよう「古くささ」はそのためかもしれない。なんかセゾンの文化バブルっぽいんだよなあ。
とか考えると、これも一種の「業界映画」かなあ。スタッフのところに「コンセプチュアル・デザイン」とか「VFXスーパーバイザー」とか、やたらカタカナが多く、でもいったい何をしてるのかわからない輩がうじゃうじゃおります。映画全体がコネクションで動いているような気さえしてきた。気持ち悪い。日本経済の立ち直りは遠いぞ。
オフィシャルのウエブページも業界根性まるだしで醜し。とあるページなど、以下のように書かれています。変な日本語ですが原文のままです。
これから先はマスコミ・プレス関係者向けて開設されています。製作の「『CASSHERN』パートナーズ」ってのもおもいっきりいかがわしくてオッケーだが、さすがこういうところも腐臭ただよってます。こんなもん、宣伝のためのオフィシャル・サイトにわざとらしく載せるな。
キーワードを入力後、LOGINをクリックしてください。この映画で唯一誉める点としては椎名林檎と宇多田ヒカル。彼女らの声がスクリーン(正確には6chスピーカーからですが)から流れた瞬間、感動しましたです。表現力って本当にすごいと思う。このただただ金の無駄遣いでしかない馬鹿映画よりも、たった一人の人間の声(×2)のほうがはるかに多くのものを遠くまで届けていると思う。
おまけ。天野嘉孝って15歳でタツノコプロに入社してんですねえ。やっぱりすごい人だなあ。おみそれしました。
オープニングはすごい衝迫。窓から入る淡い光のなか、狭い部屋で若い女性が野菜を切る。撮影、照明、大道具、小道具、衣装、メイクなど、すべてのスタッフがかなりの手間ひまをかけているのがよくわかる。ここは驚く。もちろん監督自身も細かい指示を出しているんだろう。おもいっきり力が入っていた頃のダニエル・シュミットみたい。フェルメールの室内画をフィルム上に再現しようという意志はいやというほど感じました。他のいくつかのシーンでもフェルメールのようなカメラ。その見せ方のリズムは良。スタッフのそういうところに応えたか、役者も良い。特に主役の二人。一生懸命、演技してます。しかし、それだけ。フェルメール調の画面と二人の役者の演技以外、見るべきものはない。駄作。
いろいろな問題は列挙可。でも最大のものはこの映画の主題になっている「絵画」に対する脚本家の無理解。
たとえば絵についての会話がフェルメールとメイドのあいだで交わされる。これが悲惨。あんなもんでええのですか。そこらの高校の美術部の学生でさえ、もっとまともなことを話すぞ。あの会話で平面芸術について二人はわかっているということにしていいのか。それもフェルメールの絵ですよ。あの構図。空中に浮いている塵さえ描かれているかのような、あのマチエールですよ。
さらにはフェルメールが決めた構図までこのメイドはいじくりまわします。ところがメイドが変えた構図をあっさりとほめるフェルメール。ずぶの素人に絵を教わってよろこぶフェルメールってなあ……。そうかあ、フェルメールってのは「小僧に経を習う和尚」だったのか。それほどこのメイドには天性の才能があったと言いたいのかもしれないけれど、それ以前にフェルメールがただの白痴じゃないか、これじゃあ。
フェルメールが妻を批判するシーン。「お前は絵を理解してないっ」と怒鳴ります。でもフェルメール本人の絵画に対する姿勢があれじゃあなあ。絵画を理解してないのは脚本を書いた Olivia Hetreed さん、あなたです。そりゃあ誰だって絵画の本質(というものがあるとすれば、ですが)を理解するのは難しかろう。自分のことも棚にあげておく。しかしいくらなんでもあんなおちゃらけたシーンばかりでフェルメールの芸術を示していいのか。草葉の陰のフェルメール本人が聞いたら怒髪天を衝くぞ。
たしかに登場人物に芸術を語らせることはむずかしい。しかし「彼らは芸術を理解している」ということをなんとかして観客に伝えるのが演出や脚本の技ではないだろうか。そのあたりをすっぱりと放棄してあんな会話。いかんですよ。
もっといえばこの映画、驚くべきことに絵を描くフェルメールがほとんど出てこない。岩絵具をごりごりすってるとこばっかし。しょぼい下絵を描くシーンはほんの少しありますが、その出し方も変。細かい描写をしているフェルメールを映したあとに画面に映るキャンバスにその箇所はなし。フェルメールがどのように絵を描いたかを表現しないフェルメール映画。そんな絵画制作のオタクは無視するってことですか。でも技法、手法というオタクな箇所を省いて平面芸術の芯は表現できるのか。
会話のひどさと絵画制作のディティールの欠落。そういうところから、脚本書いた人間が実は絵画なんか好きでもなんでもないというのがばれてしまうんだよなあ。「ロック魂こもった映画作ります」とか言ってて、できた映画は長髪の馬鹿男と馬鹿女がただ大音量でディストーション・ギター鳴らしながらドラッグやってセックスしてるだけってのが多いでしょ。それらの駄作群がこれまでどれほどロック・ファンから笑われてきたか。それの「絵画バージョン」ですね、これは。
ほかにも問題多し。フェルメールとメイドの情愛を描いたつもりなのでしょうが、台詞が平板なせいか何も伝わってきません。フェルメールがただのロリコン男になってます。メイドと肉屋の息子との関係も薄い。かわいそうなことに肉屋の息子には性欲以外の人格なし。それを恋人とするメイドが愛に悩んでいるようにはまったく見えません。フェルメールの家族の描き方も説得力は低い。そもそもフェルメールの妻は14人(だったと思う)の子供を産むのですが、そのあたりをどう説明するのかと思っていたら何の説明もなし。ただ家のなかにうじゃうじゃと子供がいるだけ。これじゃあフェルメールとメイドのあいだの愛の機微も描けるはずはない。フェルメールの最大の理解者であるはずのパトロンもただの色魔じじい。ということで簡単に言えば、登場人物、カスばっかし。
ラストも「余韻がある」というよりは、ぐだぐだの脚本を最後に適当にまとめようとしていっそうわけがわからなくなったというもんじゃないか。あそこでフェルメールもあれをああするのなら、いっそのこと最初から(以下略)。
せっかく画面に出てくるカメラ・オブスキュラ、岩絵具、べっこうの櫛、真珠の耳飾り、デルフト焼の陶板など、使いようによっては感興もわくであろう小物群の使い方も下手。当時のデルフトの日常生活のなかではおそらく最大の社会問題であったであろうカトリックとプロテスタントの関係の描き方も中途半端。
あれほど画面にこだわった監督がどうしてここまで脚本を軽視したんだろうなあ。
けなしついでにもうひとつ。これはリュクセンブルクとイギリスの合作。ロケ地はオランダとベルギー。誰がどうやってこの映画のための金を集めたのか知りません。でもこのデルフトを舞台にした「芸術」映画を英語で作る必然性はアメリカ市場での興行という理由以外、いったい何があったんだろうか。それはそれで大事だと思うが、それによって失ったものも大きい。
評判になった原作はいくらなんでもこんなことはないと期待したい。
なぜか前半より面白くない。どうしてだろうなあ。後編に期待させる分、前編に対しては見方が甘くなるからか。脚本書いただけで満足しましたって感じが、この後半部分は強いような気がした。ま、この映画全体が、自分が書いた脚本を東京、メキシコ、北京と三つの場所のスタッフにまかせ、自分はその横で楽しみながら作ってみました、というようなものかもしれない。それが東京はうまく行ってて、他の2箇所はうまく行ってないってことかなあ。それぞれもとになっているのが東映アクション、マカロニ・ウエスタン、香港カンフー・ムービーとちょっと場所と作風のずれを面白がりながら作られています。パイ・メイ仙人にカメラが寄っていくところなど、画質も含めて本当にゴールデン・ハーベストの映画みたいで面白かった。でもその修行をユマ・サーマンがやっててもなあ。やっぱしジャッキーじゃないと。
そりゃあ、そこらの映画に比べれば面白いですよ。でもこれはタランティーノだから。もっと別種の面白さを期待して見に行くと、ちょっと肩透かしをくわされたかなあと。
ティム・バートンは作ろうと思えばいつでもこういう映画を作れたんだろうなあと「ひねくれファン」としては思ってしまう。彼にしてみたら客を泣かすことなんぞ、赤子の手をひねるよりも簡単だろう。でもそんなねじれた感想は置いておくと。良い映画です。『猿の惑星』をつまらなくリメイクし、金に目がくらんだか、とファンを失望させた地点から軽やかに復活しています。
ただし、巷間言われているような父子の愛情といったものはこの映画のテーマではないと思う。それよりも、何かを想像することは何かを創造することで、それはまた何かを無根拠に信じることでもある……とかそんなものかなあ。そういうふうに言ってしまうとすごく平板な見方のような気もする。でもこの映画の言いたいことは愛とかそんなものからは遠いんじゃないか。
ラスト前のふたつのシークエンスの泣かせかたがすごいんで、ついつい情とか愛とか、そっち方向に気を取られてしまいそうになるけれど、でも主題は「信じること」だと思う。
ラスト前以外の他のシーンにははっきり言ってうまくいってないものもある。何が言いたいのかぼやけていたり、リズムが悪かったり、キャラクターの造形がうすかったり。そういうところを引いても、その「何かを信じる」ということの示し方がうまいので、ま、いいかあという気にはなります。そうかあ、ティム・バートンはフェリーニが好きだったのかあ、そうかそうか、といろんなところに納得しました。もしサーカスが出てこなかったとしてもフェリーニっぽかったんじゃないか。
映画館の椅子に座って『ビッグ・フィッシュ』という架空の物語を見て泣いている僕たちの「今」とはどういうことかも考える。嘘に泣く自分を見る自分を映画が示す。この感覚も個人的にはフェリーニ。今、眼前に映っている絵空事に僕たちはどうして関心を持つのか。パラレル・ワールドを構想することと、それはどこが違い、どこが重なるのか。 2004年度版「学生への推薦図書」 の Watchmen のところにも書いたけれど、そもそも僕たちが接する「ものがたり」や「おはなし」って、パラレル・ワールドでないものってあるんだろうか。何かを語るとき、すべてのものはパラレルに存在しはじめる。にもかかわらず、それらのなかで国家や権威が語る「ものがたり」だけが「正統」なものとして語られはじめる。
と、ここまで書いて「国家」で思い出した『ほたるの星』の予告編のことをつらつらと書いていたんですが <見た映画――番外編> のほうに書き直しました。そっちを見てください。
おまけ。Julianne Moore がけっこう大事な役で数秒出てきます。ノン・クレジットらしいですが、画面で探してみてください。すぐわかるけど。
必見。すばらしい。またまた月並みな表現で申し訳ないけれど、これを見なければ人生の喜びのうちのひとつを失う。ラストに流れる歴史的名曲からすると Lars von Trier 監督自身はアメリカを描いたつもりなのかもしれない。しかしそんなに謙遜することはありません。アメリカ的なものを題材にしてもっと大きなものが表現されています。
「音楽の地図はベートーベン、モーツァルト、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーの4人が塗りつぶしてしまった。ほかの音楽はそれらの縮小再生産にすぎない」などと自分の知能の低さと感性の欠如と聞いてきた音楽の少なさを露呈させるようなことを言う輩がおりますが、こんな映画を見ると、いかに人間の能力が無限であるかがよくわかります。映画という手法にはこういう可能性もあったんだということを思い知る。演出、演技、ストーリーなど、映画についての既成概念がいかに狭いものだったか。私たちの映画についての考え方の枠をいっきに10倍ぐらい拡げてくれる。Trier は『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で見せた表現レベルをさらに上昇させ、何を超越しているのかよくわからないけれど、昇華という言葉まで想起させる。
他人の悲しい話に「もらい泣き」することや、ご都合主義のハッピーエンドに「安堵」することだけを「感動」だと思っている人にはこの映画はつらいかもしれない。でもこの新しい種類の芸術に触れることは、生きていくことの意味の一部を確認することでもある。傲慢と寛容といったこの映画の表面上に現れてくるテーマ以上のものをそれぞれの観客が独自に見つけるようになっている。驚嘆すべき構成力と表現。
広い床にチョークで家の輪郭を書いただけのセット。その上で異常なテンションの演技を見せる俳優たち。彼/彼女たちは発狂しそうになったんじゃないだろうか。ベン・ギャザラはこの監督の映画には二度と出ないと公言しているそうですが、その気持ちもわからないではない。
イントロダクションを入れて全10章構成。この3時間は短い。観ながらずっと緊張したままという映画も久しぶりでした。
(追記:本作のウエブサイトなどを見るとメイキング・フィルムがあるそうです。タイトルは "Dogville Confessions"、『メイキング・オブ・ドッグヴィル〜告白〜』という邦題で公開中。こっちも見たいっす。)
つまらん。いくらシネマスコープで撮ってもこれじゃあなあ。原作に謝れ。
つまらん。退屈。もしかして Robert Rodriguez はマニア受けする作品しか作れないんじゃないか。これだけの俳優つかって、こういうプロットで、なおかつ金があって、そんでもってできた映画がこれじゃあなあ。予告編見て、これはたぶん映画本編とはだいぶ違う予告編じゃないか、もっと本編は凝ってて面白いんだろうといくらか期待もしていただけに、はずれ度高し。見ている途中でまだ予告編のほうがましな気がしてきた。いったい何がしたかったんだろうなあ。
邦題もひどいっす。どうみてもこれは Sergio Leone へのオマージュなんだから、それらしいタイトルにしてほしかった。"Once Upon a Time in the West," "Once Upon A Time...The Revolution," "Once Upon a Time in America" という三部作を作って死んだ Sergio Leone 。それぞれ邦題は『ウエスタン』『夕陽のギャングたち』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』だから、確かにこれらを引き継いで良い日本語題にするのは難しかろう。それにこの映画はRodriguez 本人の "Desperado" の続編でもある("El Mariachi" も入れればシリーズ三作目か)。それでも何とかして欲しかったというのがマカロニ・ウエスタン・ファンのしつこさ。すいません。
泣きますよ、これは。久しぶりに映画館で見たが、コンサートのシーンが始まったらもう泣けてしまってしょうがなかった。以前に見たときももそうだった。新潟のシネコンのひとつ、ユナイテッドの「ディレクターズ・チェア」という企画。古い名画を割引価格でなおかつ大スクリーンで上映。すばらしい。その第三弾ということで 野村芳太郎の『砂の器』と山本薩夫の『白い巨塔』。最近、テレビでリメイクしたからこういう組み合わせになったんでしょう。考えてみれば両作とも脚本は橋本忍。『砂の器』のほうでは橋本は制作もしています。橋本プロ第一作。共同脚本は山田洋次。
話は面白くないわけじゃないんですが、謎解きとしてはめちゃくちゃ。奇抜なプロットがあるわけでもない。血のついたシャツを切り刻んで汽車の窓から捨てましただあ? いくらなんでも「本格推理」とはよべず、しょうがなく「社会派」とよんでみましたって感じの話。
にもかかわらずこの映画は感動的だ。映像と音響の勝利。台詞などに面白いものもある。しかしこの映画の妙技は俳優を手前で動かしながら、ハンセン氏病患者への差別を背景に日本中の季節を見せる。その手法。
「日本っていい国だなあ」などというぼんくらな結論にいたるべきではなく、ここには編集の高等技術を見るべき。別に後ろの絵はインドでも北米大陸でも、アフリカのサバンナでも応用可能だと思う。『宿命』という曲と画面のシンクロ。ストーリーを知らなくても、この画面と音を体験するだけで誰でも感動するんじゃないか。それに橋本忍、山田洋次の強力コンビが書く「親子の情愛」というストーリーが絡むわけだから、泣くなというほうが無理だろう。タイのカレー屋に行って「一番辛いカレーにしてください」って注文して、そんで出てきたカレーが辛すぎて食えないのと同じだよなあ(体験者談)。
そりゃあ、ひどいところもある映画ですよ。緒形拳みたいな奴が本当に戦前の日本で警官してたんだろうか、とか。丹波哲郎と森田健作の演技に執念が見えない、とか。今西刑事に関しては昔のテレビ版の仲代達矢のほうがはるかに良かった。そういうことを考えると、ちょっとほめすぎかとも思う。でも、こういう作品を上映しようとするシネコンは偉いってことで。
あまり関係ないことだけれど、シネコンのような音のいい映画館で久しぶりにモノーラルの音を聞いた。最近の映画はステレオどころか、マルチ・チャンネルのものも多いから、ずっと音がスクリーンのまんなかから聞こえてくるというこの映画を見るとすごく変な感じがしましたです。別にたいしたことではありません。
研究報告のためにニューヨークに行く。その研究報告前の数日、時差ぼけをなおさんといかんのでどこかへは出かけたい。友達と飲みに行くほどの精神的な余裕はない。コンサートでは寝てしまったときに経済的リスクが大きい。散歩するには寒い。ということで美術館と映画館へ。映画は何を見ようかなあと思っていたらニール・ヤングの "Greendale" が。日本では公開されないかもしれない。これはCDもコンサートも良かった。ということで見てきました。よかったです。ニール・ヤング本人が雑誌 Time Out New York のインタビューで「これは高校演劇のように撮ったのじゃ」と言ってました。そもそもニール・ヤングにプロの映画監督の技を誰が期待するというのか。ま、それはそれとして、本当に全体が素人っぽく作られています。しかしそれが良。どんな画面撮ろうが、バックの音がニール・ヤング・アンド・クレージーホースだから。それが大スクリーンとともに大音量でどどーんと来るわけですよ。
コンサートのときは、ニール・ヤングらのステージとは別にこの Greendale のストーリーを演じるためのステージが3つも作られていて「いったいどこを見たらええのじゃ」という感がありました。しかし映画だと画面見ながら音楽を聴いていればいいので、とてもすんなりと Greendale の世界に入り込めます。
かつてならこういう形式のCDは「ロック・オペラ」と呼ばれていたんでしょう。個人的にはこの手のものにあまり良い記憶はありません。ザ・キンクスやザ・フーがつまらなくなったのも、10cc分裂後のロル・クレームとケヴィン・ゴドレーが "Consequences" で膨大な才能(と世界中のファンの金。なんつったってボックス入り3枚組LPだったから)を蕩尽しきったのも、だいたいはこういう「一度はロック・オペラの大作をつくってみたい」願望のせいだと思う。シングル一枚、あるいはその集合としてのLP一枚という限定されたポップミュージックを表現することにあきたらず、なんらかの壮大な世界観に基づくストーリーを提示したい。そんなことしなくていいのになあ、と何度悲しんだことか。
ところがこの Greendale は良いのですよ。だいたい示されている世界が、どうにも中途半端で。とにかくニール・ヤングが怒っているというのはわかるんだけれど、その怒りがどこに向けられていて、いったいどうしたいのかというのがわからんところが面白い。Greendale という架空の町のなさけなさ加減もいい。エコロジストたちに共感しているのか、それとも馬鹿にしているのか。大手メディアを批判したいのか、それとも個人レベルの問題にしたいのか。そういったいろんなところが「なんかよくわからんが少なくとも今、俺はこう思う」といった感じで素人っぽくごろっと差し出されるわけですね。
おなじことをたとえば他の人間、特にニール・ヤングのような大大大ベテラン・クラスがやるとえらく悲惨なことになるんですが、そうなってないところはニール・ヤングの人徳ですかねえ。裏人徳って気もする。才能ってことはないでしょう。
でも他のロック・オペラと決定的に違うのは、それぞれの曲がとても良いという点か。あたりまえのようだけれど、多くのロック・オペラにはシングルカット可という曲が少ない気がする。だらだらと長い台詞のような歌詞と似たようなフレーズの繰り返しばかりで。
ということで、名曲に裏打ちされたこの映画。楽しみました。でも本当にニール・ヤングがやりたかったのは、かわいい女の子が赤い拡声器もってがなる絵をバックに自分の音楽を大音量で流すってことだったんじゃないか……と、一瞬ですが邪念をいだきました。でもこのシーンは全体の中で特に大事なところだし。この場面には僕自身もちょこっと感動してしまいました。
原作のストーリーを適当に省略してキャラクターも整理、ちょっと強引に設定も変更しているが、ともかくあれをこの時間におさめたのはえらい。それでもって全世界15億人の『指輪物語』ファンの期待を裏切らない造形。それぞれの読者が頭のなかにもっているキャラクター像を遥かに凌ぐかっこよさ。特にガンダルフ。白馬に乗って鞍も手綱もなしで駆ける。「翔る」のほうがふさわしいと思うほどかっこいい。マグニートとはえらい違いじゃ。同じ俳優とは思えんぞ。
たしかに細かいことを言い始めるといろいろご意見もあるでしょう。「私の好きなシーンがないっ」とか。アラゴルンがどうも弱っちいとか。みんな意志薄弱だとか。たしかに原作全体に漂う(というよりはテーマそのものなのか)「高潔さ」という気配が多くのキャラクターに薄いような気はする。しかしこれを表現するのは実写映画ではなかなか難しいですよ。演ずるのは生身の人間なんだし。
ともかく、そういったいろんな問題を勘案してもこの3作全体は良い映画だと思う。これは作り手の「まじめさ」の勝利と言うべきじゃないか。つきなみなほめ方で申し訳ない。しかし画像処理のための新しいプログラムの作成からはじまって、おそらくは怪我も多かっただろう俳優やスタントマンたち、あの大量の鎖帷子(くさりかたびら)を夜なべ仕事で作ったスタッフ(一人で全部作ったそうですが本当なんですか)にいたるまで、良い作品を作ろうとする意思を画面のあちらこちらに感じました。このところ軒並みはずしまくっているハリウッド大作の大味さとはかなり違う。
この映画を見て原作をもう一度読み直そうと思った人は多いでしょう。嗚呼、あの至福のひとときよ。
ただ『二つの塔』を見て以来、どうも妻は私のことをスメアゴルと呼びがちで、いかん。いかんぞ。たしかに他人と思えんところがないでもないが。いじけてるし。まい・ぷれーしゃす。
「この映画は大変不快だった。無垢な人間がなぜあんな目に遭わなければならないのか?」という映画評を知らせてくれたのは、オーストラリアでポッサムとウォンバットに総合格闘技を教えている友人である。オーストラリアのとある邦字新聞に載っていたらしい。この映画を見てこういう感想を持つ人もいるんだなあと唸りました。十人十色とは申しますが、ここまで人間のふれ幅が大きいとはなあ。何のふれ方とは言わんが。イーストウッドの新作なんで見るしかないのは当然。今作もイーストウッドの常道と新機軸が交じり合ってとても見ごたえがありました。大推薦。不快と思う人もいるだろうが、そういう人はハッピーエンドを見ることだけを幸せと考えていればよろしい。
ちょっと気になったのはいつも以上にアメリカ的に語り過ぎている点か。イーストウッドなんだから当たり前だけど、今回はシリアスだけにそのアメリカ的視点が過剰に感じられるシーンあり。アメリカの文脈を知らなければよくわからんぞというシーンかなあ。そういう意味ではグローバリゼーションに対抗しようとするアメリカニズムという珍しい例か。ハリウッドではその両者を同じものとしてとらえている作品ばかりだし。
ネタバレじゃないと思うが「男の話をあっさりと女の話が凌駕する」という箇所もイーストウッドのファンにはおなじみのところ。どうしてこういうふうに終わらせるんだろうかと不思議だけれど、面白いんだからいいか。イーストウッドのこの芸風、単純な「女嫌い」というものでもないし。なんだろう。ちょっと『木枯し紋次郎』みたい。
批判もしておくと、画面が『ミスティック・リバー』という原作のタイトルにひきつけられすぎ。あそこまで河をじっさいに撮る必要はあったのか。ま、即物的な人だから。ミスティック・リバーもメタファーじゃなかったということなんでしょうね。おちゃらけ系でとても好きなイーストウッド作品『ガントレット』もタイトルはメタファーじゃなかったもんなあ。ちなみにあれは高校2年生の頃、友達と見にいったんだよなあ。近藤君、お元気ですか。それにしてもあれから四半世紀。ミスティックだよなあ……(慨嘆)。