学報94号
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       式 辞         2大学は自立した個人の共同体第29 回入学式新入生の皆さん、入学おめでとうございます。これから皆さんは4年間の大学生生活を送ることになります。明るい希望をもっている皆さんにお伝えするのが適切かどうかわかりませんが、ここでひとつの事実をお伝えしておきたいと思います。それは、4年後に皆さんは大学を卒業するでしょうけれど、卒業後、全員が大きな後悔を共有するということです。どのような後悔かというと「もっと勉強しておけばよかった」という後悔です。そして4年後、皆さんは本学を卒業したあと、すぐに働くことになるでしょうけれど、その後悔の念は働いている日々のなかで大きくなることはあっても消えることはありません。嘘だと思うのなら、皆さんのまわりにいる方々で大学を卒業した人たちに聞いてみてください。まちがいなく全員が「大学生のときにもっと勉強しておけばよかった」というはずです。さらにいえばこの後悔は日本だけの現象ではありません。他の国でも卒業後のアンケートなどを見ると、大学でもっと勉強しておけばよかったという後悔は国境を越えて、広く共通してみられるものです。私の国外の友人たちも同様なことを言います。大学卒業者がここまで同じ後悔を共有するには何らかの理由があるはずです。私は大学教員として以前からこの理由について考えてきました。おそらく三つくらいの理由があるように思います。理由のひとつめは簡単です。大学生である4年間はあまりに楽しいことが多いということです。勉強する前に遊んでしまうんですね。そういう誘惑に負けてしまう。それはそれで当然でしょうし、私自身も人のことは言えません。映画見たり、お芝居見たり、他にもかなり遊んだし、お酒も飲みました。しかし言い訳するとそれらの遊びにも意味はあったと思います。ちょっと長くなるのでその話については、今日は省略します。ふたつめの理由もある程度は簡単です。それは勉強という行為に終わりがないからです。私は勉強したと思っても、勉強って不思議なもので、すればするほど絶望に近いものを感じるようになります。勉強って底なし沼のようなところがあって、完成形のようなものがありません。あることについて理解した瞬間には次の問題がおそってきます。ある本を読んだとしても、次に読むべき著作は何か、すぐにわかります。きりがないんですね。ですから、勉強の成果というのは常に途中経過の途中報告です。そういう意味では研究者は自分のことを常に未熟者と考えます。本学の教員には優秀な研究者が多いと思いますが、彼/彼女らで自分のことを大先生だと思っている者はいないはずです。それは謙遜ではなくて、勉強、研究するということはそういう発言をさせないようにできているからです。以上のふたつの理由で、大学を卒業した者すべてが「もっと勉強しておけばよかった」と思う理由のかなりのところは説明しているように思います。でも本当はもうひとつあるんじゃないかと思っています。それは「大学とは何をするところか」という問題ともかかわる、ちょっと面倒な問題です。現在、本学をはじめ、日本中、また世界中に大学と呼ばれる組織があります。なんでこんな組織がひろがったのか、その理由はどのようなものでしょうか。それは大学で「ものを考える」ことを社会が良いと思ってきたということです。さらには、その「ものをとことん考える」ということはどういうことでしょうか。その点において、大学はスキル、技能、技術、知識だけを教える他の教育機関とは決定的に異なります。ではこの「とことん考える」ということは何を意味するのでしょうか。それはふたつの側面をもつと思います。すでにそのひとつはこうして始まっているわけですが、「考えることについて考える」ということです。つまりこれも際限なく続いていきます。はやりの言葉でいうと「メタ」ということになるかもしれません。メ考える、といっても良いでしょう。「とことん考える」ということは、そういう際限のない思考経路を作り上げていくことでもあります。そうすることによって思考の方法も身につけていくことになります。しかしこの思考法をつくりあげるということは現実的に考えると、とても大変で、ふつうは途中でやめてしまいます。ノイローゼになっても怖いですし。だからふつうの人はあることについて批判するとき、「そタレベルなどという言葉もありますが、意味の意味について考えることについてんなことに意味はない」などと言ってしまいます。しかしこれは思考の放棄です。意味について考える根性のない人にかぎってこういう言い方で相手を批判するんですね。だからそんな人たちに反論するには「意味がないってどういう意味だよ」と返してやればいいのです。そして「とことん考える」ということ、その「とことん」ということのもう一つの側面は、その考える内容が、いつでもどこでも通用するということです。ある時代のある地域だけに通用するような答えは、考えたことのなかには入りません。どんな場所、どんな時代でも成立するようなことを解答として導きださないといけないのです。難しくいえば普遍的ということですが、語源的には大学とも近いユニバーサルという考えかたはここに生まれます。私たちは大学でものを考える以上、それらの答えがいつ、どこでも成立するような答えにしていく責任があります。しかしこれもまた現実的に考えると大変な作業です。というのもこの世界は複雑で、なおかつ予測不可能なことばかり起きるので、その答えが簡単にはできないことばかりだからです。たとえば現在のロシアによるウクライナ侵略も、どのようにして解決すべきか、国連を中心としてこれだけ議論しても答えはなかなか見つかりません。また答えが見つかったとしても、それが実効可能かどうかもわかりません。ロシア、ウクライナの問題を見てもわかるように、人によってものの見え方も違うでしょうし、何を解決とするかも立場によってまったく異なるものになっていきます。だからこそ今お話しした普遍、ユニバーサルということが大事なものになってきます。ある問題をどのように考え、どのように解決をはかるのか。大事だからこそ、この作業は大変な労力を必要とします。問題をどのように認識するか。その解決方法をどのように作り、どのように実行するか。さらにはそれをどの時代のどの地域の人々も納得するようにしなければならない。これはもううんざりするような作業です。新潟国際情報大学 学報 国際・情報 令和4年4月発行 2022年度 No.1令令和和44年年度度新潟国際情報大学学長 越智 敏夫

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