2005年に見た映画
世紀の大名作のリメイクに挑むのは根性があると思うし、その名作のリメイクにしては面白い。オリジナルを見てないと笑えないところなどもあるけれど、そりゃあリメイクの性(さが)みたいなもの。それはそれで面白いし。たとえばあの恐竜をやっつけたあと、その恐竜の頭でコングがちょこっと遊ぶところなど、オリジナルを見返したくなるほどだった。本当はこっちが気づいた以上にいろいろあるんでしょうが、そんなにオリジナルに思い入れない当方としてはよくわかりませんでした。しかし良い映画だと思う。ちょっとした画面でオリジナル以上のことを伝えようとしているのも映画作家としては偉いと思った。それぞれの登場人物の視線の絡み方を使った表現とか。何せ相手がエテ公だから、人間たちも台詞以外で表現するしかない。主人公の映画監督の人格が途中で豹変するところもこの映画ではえらく意味があったような気がする。
それにしても、なんでこんなに長いのだろうか。上に書いた 187 min. というのはアメリカ版。日本では198分だそうです。また公開前の宣伝文などでは時間がまた違っていたりと、このあたりの経緯はわかりませんが、とにかく長い。オリジナルではあっという間にたどりついていた骸骨島になかなか行きません。そもそもニューヨークでの人間描写が長い。まあそれぞれの登場人物を丁寧に描くということかもしれませんが、ヒロインがストリップ・ショーに出る直前まで追い詰められていたという窮境と、巨大類人猿との恋愛のあいだになんらかの関連があるのだろうか。映画監督がどうやって金を集めるかを描くことで何が伝わったんだろうか。こっちが見たいのはそういうものなのか。
ということで、化け物どうしのバトルを見るにはとても良い映画でした。これは誉め言葉です。「意味なく長い」ということ以外は問題なしです。でも本当はところどころ、突然特撮がちゃちになるところがあって、あのあたりも謎です。まあ最大の謎はコングの存在だし。謎が多いのは良いことだ。多謝、無責任。
最高に面白い。悲劇かハッピーエンドか、そこのところはよくわからんが、とにかく見終わった後の充実感は濃い。払った銭のぶんは充分いただきました。こんなものをこの額で見せてもらっていいのか。レイトショー割引で申し訳ないと思うくらい。ストーリー、映像、リズム。それぞれがすごくまとまっていて、このストーリーだったらこの画面で、この間の取り方しかないなあと思いましたです。いろんなところをいくらでも誉めることができる作品。でも特に声優のせめぎあいがすごいです。えらく貴重なアンサンブルを見た気がした。何かの価値を伝えてます。ほんとに名優ばかりで、ちょっと意味は違うが「ルパン3世」「あしたのジョー」状態。ほぼ全員が同じ役で実写映画が作れます。これは偶然とかではなくて、出来のいいアニメの場合、ときに必然のように起こることだと思う。
Johnny Depp、Helena Bonham Carter、Emily Watson の主役トリオはもちろん、Tracey Ullman、Paul Whitehouse なんぞも一人二役、三役しているとはいえ、みんなそのまま演じてもすばらしい作品になりそうでしょ。それにしてもぜいたくなライン。「奇跡の海」のベスの声にも驚いたけれど、主人公のお母さんが突然 "They Don't Know" と歌い始めるかと思った(嘘)。
Albert Finney、Christopher Lee、Michael Gough あたりの天下の名優陣も本人が演技してもまったく問題なし。チョコレート工場のウンパ・ルンパ、Deep Roy も渋い声を出してるし、作曲の Danny Elfman 本人も歌いまくり。うまいなあ。しまいには Jane Horrocks まで。おいおいこんなところで「リトル・ボイス」を聞くとはなあ。後で知ってすごく驚いた。またまた、まいりました。
ということで、声優リスト持って再度劇場に行きます、たぶん。
つまらんかった。退屈。なんもかんも中途半端。作ってるほうだけがはしゃいでいる。また Robert Rodriguez にだまされてしまった。もう見んけんね。こうやってフィルム・ノワールがまた誤解され続けていくんだなあ(嘆)。
面白うございました。前作の『ビッグ・フィッシュ』よりもバートンらしくて良。ロアルド・ダールの原作のほうがダークな印象というのが意外。映画のほうは明るいつくり。もっとバートン流にどろどろだと思っていたら、どろどろなのは溶けたチョコレートだけだった。
「大人も子どもも楽しめる映画」というジャンルがありますが、本作などその典型かもしれん。ミュージカルの流派や過去の映画のパロディなどもちりばめ、まったく退屈しませんでした。かんじんの歌もよござんす。ダールの歌詞もそのまんま。ただし、歌詞で主張される「道徳」については映画のなかでは観客が必然的に距離をとるように作っているように見えた。ま、そんなこたぁ言わなくても面白い映画でした。
ちなみにここでも Christopher Lee、大活躍。すごい。ウンパ・ルンパの Deep Roy はこれで日本でも人気者になるか。でもいちばん(いろんな意味で)感動した役者はリス。かりこりかりこりかりこりかりこりかりこりかりこりかりこりかりこり……。
短期の洋行から帰った妻が若干風邪気味。看病などもちょっとはしつつ、その隙を狙ってまたまた一人じゃないと見えないものを見てきました。本家ゾンビ。元祖でも宗家でも家元でもいいけど、とにかくは久々のロメロ、オリジナル・ゾンビ。90年代もほとんど映画を撮らず、久しぶりに撮ってみたらろくなもんじゃなく、キャリアも終焉したかとファンを失望させていたロメロ。でもこれは良かったです。話は近未来のある街(ってロメロの場合はみんなそうだけど)。地球上はどこもかしこもゾンビだらけ。でもこの街は大きな川の中州にあって周囲は橋。まるで新潟。その橋をバリケードでふさいでゾンビから守ってます。そのなかの高層ビルに住む金持ちと、スラムに住む貧乏人の二つに別れた階級社会。
そんな階級社会の悪の権化は当然のように Dennis Hopper が楽しそうに演じております。ま、そいつをどうやって食うか、みたいな話なんですが、ちょっとは予想外の展開もあります。でもそんなところはこの映画の場合、見るべき箇所ではないですね。主演は当然ゾンビなわけで、彼らと一般ピープルのこぜりあいが本筋。
本作ではそのゾンビがロメロ的に進化。行動パターンも少し変化しているし、頭のなか(が彼らの場合いったいどんなつくりなのか知りたいところだけれど)も三歳児かチンパン程度には良くなってるのもいます。これがどうなっていくかは見てのお楽しみ。このあたりのゾンビの「能力」をどう評価するかで、この映画も好き嫌いがわかれるでしょう。話は面白くなってはいるので私は肯定したい。
ほかの新ギミックは花火。ゾンビ・ファン(マニアにあらず)としてこれは大笑いした。こういうのも好き。Gore シーンについても、やっぱり本家だけのことはあるので、いろいろ見せてくれて胆嚢、じゃない堪能しました。まあマニアはどう思うかわからんが。
Cholo というキャラクターの行動もゾンビ映画らしくて面白かった。ちなみに、この役を演じた John Leguizamo はすごく良。いろんな娯楽映画で見かける俳優さんですね。他にも Asia Argento やら Robert Joy やら、この映画は他のロメロ作品に比べて俳優の演技が格段にいい気がした。そのぶん「普通の映画」になってしまった感があるけれど、でもちょっとまじめに見てしまったなあ。
この Asia Argento、当然ダリオの娘なんですが、この滅茶苦茶な名前といい、美人なのか、強面のオバアなのか、うまい演技なのか、地なのか、といろいろ不確定要素の多い人ながら、ついつい見入ってしまう魅力的な女優さんですね。もっといろんな映画で見たいです。
それにしてもペンギンって不思議な生き物だよなあ。生き物はどれでも不思議なのは当然だし、それぞれの生活環境もいろいろなのも当然だけど。それでもペンギンって、やっぱり何か変じゃないか。生き物としての形態のおかしさとか。そういう意味ではアリクイも変だし、ナマケモノもツチブタも変だけれど、彼/彼女らは分類としてもどこにいれていいのかわからんことになっていて、すごく適当な類に入れられている。ところがペンギンって正真正銘の鳥ですよ、鳥。それがあんなことになっててなあ。飛べない。泳ぐのは得意。歩くのは苦手。よくこける。自然界の生き物があんなにころころこけていいのか。あげくのはてに氷上を腹ですべって行きますだあ? 一度くらい挨拶にでも来い。鰯の水煮くらいくれてやろう。
しかしこの映画は良かったです。あの酷寒、厳寒のなか、よく撮ったと思う。スタッフの2・3人も凍死してんじゃないだろうか。
ひとつ文句をつけると音楽。ぜんぜん駄目。なんでわざわざ Emilie Simon みたいなのを使うかなあ。これは現場スタッフへの冒涜に近い。南極を吹き抜ける風や嵐の音にはじまって、氷の表面が溶ける「ちりちり」という音、数秒ごとに変化する波の音、ペンギンの呼吸音、親がうまく足にのせられなかった卵がすぐに凍り始めて割れる音(これはすごくどきどきした)、ありとあらゆる鳴き声の妙……などを録音しておいて、なんであんなにスクラッチノイズや擬音入りまくりの似非モダンで下品な音楽をちりばめるのか。歌詞も変。おどれが表現したいのはそこらのミッション系幼稚園の夏休み絵日記なんか? みんな善次と一緒に「ぱらいそ」さ行くだか? 諸星大二郎先生に謝れ。わからん文章で申し訳ない。ペンギンの生死を見ながら、なんであんなのーたりんなロリコン音楽を聴かなければならないんだろうか。疑問形が多くて申し訳ない。でも音楽以外は本当に良いドキュメンタリーでした。今年の夏は暑そうだし。
良いか悪いかなんていうことはあんまり関係なくて、好きか嫌いかだけだよなあ……と思わせた Jim Jarmusch の勝ち。僕は好きです。でも最後のクレジットで唐突に "Long Live Joe Strummer!" と出てきたときには少し泣けてしまった。
とんでもなく面白かった。Episode I - The Phantom Menace から始まったこの話が「どこに」つながるかはみんな知っているわけで、期待するのはその Episode IV - A New Hope へ「どのように」つなげるか。ひと言でいってしまえば「一人のマザコン男が宇宙を滅ぼす」というこの救いようのない惨劇。それをどのように盛り上げてお客さんを満足させるのか。まったく期待どおりの作品でございました。
最初の10分くらいはあの画面になれるまで少しつらかったし、画面転換もいかにも「急いで説明してます」というように見えて若干いらいらした。けど、そうした気になる点も一気に進むアクションとストーリーがかき消しました。
『スターウォーズ』シリーズで僕が見たかったのはやっぱりライトセイバーのチャンバラだったんだなあということも再認識した。あの<ぶーんぶーん>とうなるライトセイバー。大学院入りたてのころかなあ、一緒に酒飲んでててまわりに気に入らない奴がいたりすると故大串君とぐるになって「ライトセイバー抜くぞお、こらぁ」とか言ってよく遊んでたなあ。合掌。
そんでそのライトセイバーですが、もう本作ではそのチャンバラばっかし。空中戦やら巨大トカゲの背中に乗っての疾走やら他のアクションもあるにはあるものの、今回はセイバー道まっしぐら。しかしそれがすごければすごいほど、ああもうこれも見納めかあと思うと悲しくもあり……。それくらい圧倒されました。ありとあらゆるシーンでライトセイバーの乱舞。それがまたカメラやら編集やら音響やらがうまいので、セイバーはめちゃくちゃ速く動いているのにどんなふうに戦っているのかよくわかって、どきどきしまくり。このあたり、カット割や編集が信じられないくらい下手なために、のそのそしているにもかかわらず誰がどう戦っているのかさっぱり伝わってこなかった『バットマン・ビギンズ』とはえらい違いぢゃ。
前作でクリストファー・リー(しつこく言うが1922年生まれ!)が演じ、驚異的な強さを見せていたドゥークー伯爵は今回ちょっと弱かった(というよりはアナキンがそれだけ強くなってたということなんでしょう)が、他のグリーバス将軍、ダース・シディアスといった敵たちも強い。当然、オビ・ワン、ヨーダ(かっこいいぞ)、ウィンドゥらのジェダイも強い。戦いってのは、こうじゃないと。アナキンとオビ・ワンの死闘にいたっては、いったい誰が文句をつけられよう。フェンシングのように突くことをいっさいせず(ほんとはちょこっとあるけど)、日本刀のように振りまわして鍔ぜり合いしまくりってところが、チャンバラ度高し。鍔ぜり合いがなければチャンバラじゃないし。黒澤明御大も草葉の陰でうれし泣きをしておろう。
ストーリーの小さいところ(でもないか)では、どうやってバトル・ドロイドを消滅させるかなあ、とか、ジャバやハン・ソロ関連はあるのか、ボバ・フェットは絡むのか、デス・スターやチューイをどこまで出すのか、とかいろいろ前もって気になっていたところもたくさんありました。無視しているところもあれば、ちゃんと答えてくれているところもあり。でも一番良くわかったのは、なんでEP4〜6に出てくるジェダイが強くて、EP1〜3のジェダイが弱いのか。その点は納得いく展開だった。特にヨーダの最後の台詞。そりゃあ、オビ・ワンも強くなるよなあ。みんな歳はとったが。
ストーリーの大きいところでは共和国が帝国化するところでもうひとひねりあるかと思った。そこがちょっと残念。
それにしても、どうしてこうも『宇宙戦争』と差がついてしまったか。「思想」の差か。どこかの英文サイトの『宇宙戦争』評で「とうとうスピルバーグがローランド・エメリッヒになりさがってしまった」という一文を読んだけれど、本当にそのとおりだと思う。
もちろん思想の差というのは先に書いた「共和国の帝国化」を描けるかどうかということではない。G・W・ブッシュを中心とした勢力がこのEP3で批判的に描かれているというのは、確かにそのとおりかもしれない。でもそれだけでこの映画を誉めるのはあまりに皮相的な見方だろう。贔屓の引き倒しである。
『宇宙戦争』がテロと破壊のイメージをばらまいただけなのに対して、EP3がデモクラシーの逆説を思想として示しているという違いもあるが、それだけでもないような気がする。確かにEP1〜3は、イングランド革命がオリバー・クロムウェル(New Model Army ! EP4につながりそうでしょ)による暴虐を生み、フランス革命がジャコバン独裁とボナパルト帝政を生むという「市民革命の逆説」を想起させる。
でもこの2作品の出来を本当に分けている思想の差は、言い方をかえれば映画のストーリーを語る際の<理力>の有無の差のようなものではないかと思う。何を言っているのかわかりにくくて申し訳ない。
映画を観る前から観客をどきどきさせて何かを期待させるのは、実はとても難しいことだ。たとえばエメリッヒの映画にはまったくそれがない。ま、何かは見せてくれるだろう、程度のものでしかない。ところがかつてのスピルバーグの娯楽映画にはその「何か」以上のものがあった。巨大な宇宙船がF・トリュフォーと音楽で会話するらしい……、これまでとはまったく違うタイプの宇宙人が少年少女と心をかよわせる映画で編集もすごいらしい……、シカゴ大学の考古学者が神秘の聖櫃をヒトラーと取り合うらしい……など、さあ気合を入れてみるぞおとこちらに期待させるものがあった。ところが『宇宙戦争』には何もない。簡単にいえば「なんで今頃こんなものを」というものでしかない。見た後の感想もまさしくそれでしかなった。
下手をすればEP3だって、「EP4への場つなぎフィルム」とか「かつての面白さをなくした抜け殻」とか、いくらでも堕ちていく危険性はある。実際、EP1とEP6にはそうしたダークサイドに引き込まれそうな気配が強い。ところがこのEP3に私は期待した。そしてそういう期待を持たせるのは作る側の思想の問題ではないかと思う。正確には思想を整理し、観客に伝える方法だ。そんで、その方法は「この映画の面白さは多くの客に伝わるはずだ」という信念のようなものに裏打ちされているはずであり、その信念を<理力>と呼んでみた、と。どうもごめんなさい。
その<理力>を発揮したEP3に対して、『宇宙戦争』から感じられるのはアメリカを中心として世界中でおこなったであろうマーケッティングのなれの果てでしかない。家族を守るために最高度に能力を発揮しつづける父親を、アメリカ的カウンセリング用語全開で批判し続ける馬鹿息子。それを父子の愛だあ? そんなもん示すんなら、地球一個壊さなくても親子でキャッチボールでもしてればいいだろう。いったい何が言いたかったんだろうか。たしかに今のアメリカ社会、あるいはそれに同化しつつある世界全体をエクセルで集計した結果ではあるよ。でも、アナキンの愛が宇宙を滅ぼすお話のほうが僕は好きです。
アナキンがどうしてああなってしまったか。その理由としてこの映画で提示されていることは確かに弱いかもしれない。でも僕らはジェダイ・ナイツじゃないし、ナブーのアミダラ(阿弥陀ら!)女王パドメにも会ったことはない。史上最強のジェダイが宇宙を滅ぼすに至る決断を下す理由なんか、僕ら一般人にわかるほうがおかしいんじゃないか。それならいっそ、はたから見ててさっぱりわからん個人的理由でダークサイドに堕ちてくれたほうが映画表現としては良。
ひどい書き方かなあ。でもそう思うでしょ、ルーク。
ということで(ということにはなってないが)、私はこの映画を誉めたい。そりゃあ、あんな美男・美女からどうしてルーク、レーアという顔が生まれてくるのか、と巨大な謎も残る。でも本作には映画ファンとして期待し、映画ファンとして満足しました。こういうことはそんなにあることじゃないですよ。この夏、もう少しお客さんが落ち着いたらもう一度、もしかしたらそれ以上見てしまうかもしれません。
ところでチューイの寿命って何年?
<追記:2005.07.25>
2回目を見ましたが大まかな感想は変わらないです。いろいろなところが確認できて楽しゅうございました。
はずれ。ジョージ・パルに謝れ。
はずれ。ティム・バートンに謝れ。
よくもまあこんな単純な話で2時間以上ももたせたなあ。うまいというか達者というか。映像のテクニックなのか、脚本の人徳なのか。面白かったです。ワインをめぐる薀蓄まみれのアメリカン・ラブ・コメディというと、どうしても嫌味なものしか想像できそうにない。しかしこの作品はワイン以外のところが細かく作られているので、そういう薀蓄関係も気にならなかった。登場人物の人格の示し方、台詞、部屋の汚れ方。単純なストーリーの単純な動かし方。この Alexander Payne の前作 "About Schmidt" もえらく面白かった。うまい監督だなあ。
映画の出来とは関係ないところで気になったことが一点。フィルムがぼろかったです。何ヶ所かで上映したためか、フィルム自体が痛んでいた部分もあるけど、それだけの問題ではない。そもそも最初のプリント作製がぜんぜん駄目。画面は揺れ、字幕はぶれ、ずれる。ノイズはずっと入りまくる。なんなんだ、これは。プロなのか、20世紀フォックス・ジャパン。ロードショー作品だろう。こんなもんを配給しておいて、それを見た客から金を取ろうってのはどういう了見なんだ。お客さんを集めようといろいろ苦労している各地の映画館にこういうフィルムを送りつけておいて恥ずかしいと思わないのか。このプリントを作った(というか、それに失敗した)人はどうして作りなおうそうと思わなかったんだろうか。そしてプリントのひどさを知っていてそのままそれを日本中にばらまいたフォックス・ジャパンの担当者。そういう人たちは本当にこの映画をヒットさせようと思っているんだろうか。
本作のアメリカでの異常とまで言える大絶賛と、日本での無視に近い評価の低さのあいだの落差は、こうした配給会社の無理解、無能、無恥、厚顔さと無縁ではないと思う。映画がかわいそうだった。
この映画を見て<リアル>と<ステレオタイプ>の違いはなんだろうと考えてしまうのはあまりに単純な見方か。登場人物を細かく描けば描くほど、それがどこにでもいるような、もっと正確に言えばどこにでもいる人間たち(つまり私たちですね)の頭のなかのどこにでもいるような人物になってしまう危険性を、どうしてイーストウッドはこうも軽々と回避するんだろうなあ。よくできている、などという言葉が足りないほど本当に完成されている映画だと思う。台詞、ストーリー、画面、ライティング、それを前半と後半で使い分けつつ、全体を「抑制」という調子で統一。アメリカ独特(だと思うけど)のダイナーという「個食の場」の描き方、意味づけも興味深かった。後半の展開には異論もあろう。ああするしかなかったのか、とか。でもああしかないよなあと見終わった観客に納得させてしまう力技。良い映画でした。
と誉めてますが、こういうことを書くとまた学生さんにわけのわからんことを書くなと怒られるのを承知で書くと、やっぱり私はこの映画に『カリフォルニア・ドールズ』を期待してしまったために、どうもいまいち乗り切れなかったです。これは200パーセント、私の責任です。しかしこう考えると、私の映画評価の軸のひとつはアルドリッチかあ? えらそうだけど。
『飛べ!フェニックス』
『特攻大作戦』
『何がジェーンに起ったか?』
『ロンゲスト・ヤード』
『北国の帝王』
『テキサスの4人』
『ヴェラクルス』
『傷だらけの挽歌』
『ワイルド・アパッチ』
『攻撃』
『燃える戦場』(高倉健!)あまりに偉い監督だと思うのでついつい好きな作品を挙げてみました。映画館で見てないものもあります。でもこのリストを見ると立派なキャリアだよなあ。そりゃあなかには『クワイヤボーイズ』とか『ソドムとゴモラ』といった(少なくとも私には)面白くないものもあります。でもすごいと思う。
よく彼の作品は「男の生き様」「活劇」「骨太」「反骨」などという単語を使って誉められます。しかし『何がジェーンに起ったか?』『傷だらけの挽歌』あるいは『攻撃』などをなぜ面白いと感じるのかを考えれば、それはマッチョなものとは無縁ではないかと。人間性の微細なところを描く能力、というか、人間の一番怖いところをついつい覗き込んでしまうその視点というか。そこがお客さんをひきつけるんでしょう。その視点を十全に映像化する技巧とスタッフも。それにしても不思議な監督だよなあ。
ロックフェラー財閥の一員としてニューイングランドに生まれ、おもいっきし保守的なヴァージニア大学で経済学を学んだフットボール選手という彼自身の出自が彼の作品に与えている影響や、赤狩りの経験後、いかに自分の独立性をRKOなどの製作会社に対して維持したかという点などもおそらく多くの映画研究者によって語られているんだろう。また、ヨーロッパにおける高い評価がアメリカにおいて関心を呼び起こすという事態そのものを日本において語っているものもあるだろう。蓮實重彦や川本三郎ほか、いろいろ書いているだろうし。
未見の『合衆国最後の日』の完全版を映画館で見てみたいことよのお。
にいがた国際映画祭で見ました。リーランドという16歳の白人少年が主人公。彼には白人の恋人がいる。その恋人には知的障害者の弟がいて、リーランドはその弟ともよく遊んでいた。ところがある日、リーランドがその弟を刺殺する。どうして殺したのかということは観客に明かされないまま、リーランドは少年院に入る。そこである黒人指導員 (Don Cheadle) がリーランドの動機に興味を持つ。物書きとしての成功をずっと待ち望んでいた指導員はリーランドの事件をノンフィクションにしようとして特別扱いし、彼とのカウンセリング・セッションによって殺人の動機やそれまでの人生などを聞き出そうとする。少年院の外では娘の恋人によって家族の一員を失った悲しみを癒しきれない人々、その家族の養子状態にある少年、リーランドの父である有名小説家 (Kevin Spacey) など、さまざまな人々が事件そのものを持て余している。
と説明しても、この映画を説明したことにはならないか。
中学生あたりにアメリカについて説明するためらしい "The United States of America" というワークブックみたいなものがあって、それを指導員が収容されている少年たちに配って授業をやっています。それにリーランドがいろんなことをメモするようになるんですが、そのワークブックの表紙タイトルの America というところをリーランドが線で消して "The United States of Leland" と書き換えるんですね。そしてそのワークブックのなかにいろんなことを書き込み始め、指導員はそれを読むことによってリーランドの人格を知ろうとする、と。
まじめに作っている映画だと思うし、製作にも参加している Kevin Spacey の演技もさすがだとは思う。Don Cheadle も良いし、リーランドを演じた Ryan Gosling も新人ばなれしているように見える。Matthew Ryan Hoge という新人監督はよくこんな題材で勝負しようと決心したものだと関心はする。
でも何かこの映画にはとても大きな問題があるんじゃないか。たとえば指導員は平気で浮気をするのだけれど、その浮気そのものについて映画は何も語らない。「浮気をしたけれどやっぱり妻を愛している」ということをさも感動的なことかのように語るこの映画の文法はなんだろうか。これじゃあ浮気相手になった職場の女性はたまらんだろう。上司と部下という関係ではないかのように描かれているが、どこかで女性のほうは弱い立場にあるわけで、これじゃあこの指導員はただの色基地外のセクハラおやじじゃないか。
またこの指導員は小説やノンフィクションが好きでものを書いているのではなくて、ひたすら世俗的な成功を目指している。物欲とか名誉欲とかの世俗的なものが無意味だとは思わないし、みんな欲しがっているものではある。しかしここまで悩んでいるふりをして、実はなにも考えてないキャラクターを作らなくてもいいのではないか。よりによって、そういう人物を語り部として、つまりは彼の視線を通してこの題材を扱わなくてもよいのではないか。
これはこの指導員だけの問題ではなくて、大きな構造について語ろうとしない映画全体の問題だと思う。少年が少年を殺すということはたしかに非常に個人的なできごとだけれどそれを社会的な構造のなかで語り、その意味や構造全体への批判を映像にする気がなければ、やはりこういう題材を扱う意義は薄くなってしまうのではないか。
ラストシーンもほとんど「裏ご都合主義」的なものになってしまっている。まるで「このようにアメリカにはいろんな問題があります。でも良い国です」と言っているように感じられた。これはときどき見かける「アメリカ左翼の自分勝手なアメリカ論」みたいだ。たとえば「イラクに爆弾を落とすG・W・ブッシュはひどい奴です。彼はアメリカ的な大統領ではありません」とか。だいたい合衆国大統領が「アメリカ的」じゃなければ、いったい何が「アメリカ的」なのか。好きな大統領は「アメリカ的」で嫌いな大統領は「アメリカ的」じゃないとすると、じゃあ良いものはすべて「アメリカ的」で、嫌いなものは全部「非アメリカ的」なものになるってことですか。問題なのはそういうブッシュを大統領という異常に強大な権力をもった役職につけたアメリカ社会全体ではないですか。また、そういう強大な権力者に爆弾をばらまかすことを可能にしておいて、平気で済ましているアメリカの政治制度そのものじゃないですか。
ここまで極端ではないにしても、この映画にはアメリカで起こっていることの一部のみを問題としていて、その他の部分を不問に付しているような気配がある。そうやってアメリカ社会全体にただよう問題のいくつかが、さも問題じゃないかのように見えるようにできている。それらの一端が、「良心的」指導員のあまりに自分勝手ででたらめな行動に表れていたり、成功した小説家でありながら妙に厭世的で人格の不明確な父親の人物像に見え隠れしている。また同様なことは、それぞれの家族の描き方がえらく平板で画一的なところからも感じられる。
音楽も良いし、撮影もうまい映画だとは思うけれど、最後まで残った、というよりは最後に近づけば近づくほど大きくなった違和感は、以上のようなところに原因があったのではないかと思います。でももっと別の理由もあるような気もしますが。
とても面白かった。「11」よりもはるかに良かったのではないかと思う。なんといってもこっちのほうがみなさん、かっこいい。前作では阿呆の代表のような設定に怒ることも忘れていた Andy Garcia が本作では凄んでみせてるし、こんどの敵の Vincent Cassel も設定の妙というか、こんな奴おるかいなと思いながらも笑って見てしまう。もちろん Catherine Zeta-Jones もとても良いです。Tess Ocean (という名前の女優さんだそうです、あの人は)の演技については特に秘す。あれを笑えるかどうかで、この映画をどう評価するかが変わってくるんだと思う。僕は大笑いしました。前作では何がやりたいのか、いまいちよくわからなかった George Clooney, Brad Pitt, Matt Damon のトリオもこんどはここまでかっこよくなくてもいいのになあという演技をしています。特にこの3人が「マツイサン」と会話するシーンは異常なほど面白かった。困り果てた Matt Damon がレッド・ツェッペリンの "Kashmir" か何かの歌詞をしゃべって殺されそうになるところは犯罪映画史に残る名シーンである……とまで言うと大げさかもしれないけれど、えらく笑ってしまったことよなあ。
ストーリーもこれでよし。こんなものに謎解きやら、主人公の苦悩懊悩は期待してないですよ。このめちゃくちゃさが吉。メンバー紹介は前回ですんでいるわけだから、そのぶん荒唐無稽な話にするのは当然だと思う。しかしそれだけに影がうすくなってしまったキャラがいたのは残念だけど、まあ12人(+敵数人)の人物をスクリーンに放ってるんだからしょうがないです。
Steven Soderbergh もこんなことが軽々とできるのであれば、最初から「11」でやっておけばよかったんだよなあ。
ちなみにオリジナルの「オーシャンと十一人の仲間」、一般にはあまり評判の良くない映画です。が、私はけっこう好きな映画です。「西部戦線異状なし」「廿日鼠と人間」(なんと主演は Lon Chaney Jr.)、「勝利なき戦い」などを撮った Lewis Milestone。1895年ウクライナ生まれ、1980年LAで没、という生涯をおくった職人監督。イデオロギーには問題があったかもしれないし、有名な小説をだらけた映像表現にしただけの駄作もあろう。遺作となった「戦艦バウンティ」は主題さえぼけていた。でもやっぱりうまい監督だと思う。その彼が「バウンティ」の直前に、Frank Sinatra, Dean Martin, Sammy Davis, Jr., Peter Lawford, Joey Bishop, Angie Dickinson, Shirley MacLaine といった "Rat Pack" 中心の派手なメンバーで撮った「オーシャンと十一人の仲間」。確かに話はだるいし、冗長なシーンも多い。シナトラも引いた演技をしている。でもあの映画の華みたいなものが好きなんだよなあ。ヒロインの名前も「テス」じゃなくて、やっぱり「ベアトリス」じゃないと、と思うのは僕だけですか。
画面全体にも艶があって、あのメタリックやエナメルのぎらついた感じがとても豪華でよござんした。ロキシー・ミュージックの For Your Pleasure のジャケットの雰囲気というとわかってもらえるでしょうか。無理か、やっぱし。でもあの画面は本当に良い感じだったなあ。とか考えるとこれは撮影の William H. Daniels の力かな。彼も撮影監督としては立派なキャリアで、100本近くの映画を撮影してんですねえ。いやあおみそれしました。
ちなみに、オリジナルは登場人物全員がほとんどのシーンでかっこよく煙草を吸いつづけております(考えてみれば別にこの映画だけでなく、この時代の「かっこよさ」と煙草はかなり近い関係にあったんでしょう)。リメイクのほうで Brad Pitt がすべてのシーンでジャンクフードを食べ続けてるというのは、たぶんこの煙草へのオマージュ(と言っていいかどうかはよくわからんが)なんでしょうか。時代の変化ってやつでしょうね。みなさん、健康のため、煙草の吸いすぎとジャンクフードの摂りすぎには注意しましょう。
面白いかどうか、とにかく見てみないとわからないというのが映画鑑賞の常道。ところが、見る前からかなりの確率で面白さ確定というのもあります。そういう点ではこの『エイリアンvsプレデター』。製作にウォルター・ヒル。監督はポール・W・S・アンダーソン。アンダーソンは阿呆映画だったけど面白かった『モータル・コンバット』を監督。ということで安定度は高い気配が。しかしヒルが名前だけだったらどうしようかなあ、アンダーソンは『モータル・コンバット』の後はどうだったかなあ、アメコミの『エイリアンvsプレデター』はほとんど読んだことないしなあ、といろいろ考えながらも、またまた妻が仕事で東京に。この瞬時の独身状態でなければ見えんぞっ。というわけでエイリアンのようにかさこそと映画館に行ってきました。
面白いです。まったくもって期待どおり。ストーリーはいくらなんでも……というものなんですが、堪能いたしました。どきどきして、呆れて、びっくりして、血沸き肉踊って、そうじゃあどついたれと叫び、最後はへへへとか笑いながら映画館を後に。
一作毎に監督が変わり、芸風もまったく変わる『エイリアン』シリーズ。本作はその外伝にも見えます。設定は現代ということになってるんですが、お金持ちの社長さん(まあどんなSF映画でも諸悪の根源ですなあ)の名前がビショップで、演ずるは当然、ランス・ヘンリクセン。その社長さんがナイフで遊んだりしてます。『エイリアン2』のあれですね。他にもけっこう細かいところまで作ってあって、オタクから一見さん(いちげんさん)まで、みんな楽しめる立派なアクション・ホラーSF。
ただ閉所恐怖症の人はしんどいかもしれない。ペーターゼンの『Uボート』もかくやという閉塞感が所狭しと大画面上に大展開(形容矛盾か?)。あっちのほうは狭っくるしい潜水艦でしたが、こんどのは南極地下の巨大ピラミッド。ぶあつい石でできた壁やら床やら天井やらが立体パズルのようにごうごうと登場人物めがけて動いてきます。うわあ、つぶされるー、やめてくれえ……と思いつつも、面白かったです。はっきりいってそのすきまでうろうろしているエイリアンやプレデターよりもあの空間演出のほうが恐かった。
見ているあいだ、画面がなんとなくハリウッドっぽくないような気がしていたのですが、どうもチェコスロバキアの映画スタッフ大集合で作ったようですね。世界中の才能を吸い上げるハリウッド、ここにあり。日本映画はどうするんぢゃ。『ゴジラ:ファイナル・ウォーズ』なんぞ、予告編見ただけでハリウッド(というよりは『マトリックス』なんでしょうが)からのぱくり気配がぎんぎんでいきなり見る気なくしましたです。あの予告編で面白かったのはドン・フライだけでした。本当にいい人なんだろうなあ、あの総合格闘家は。