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した。^申国コース〉たちでした。いました。の国」でした。しかし、私が韓国を「キムはありません。^韓国]−ス〉不安でいっぱいでした。〈□シア]ース〉から」さんの悪いこと、いい人がいっぱいいたこと、〈カナダコース〉 平成19年度の留学・海外セミナーのり合い互いに成長をたたえ合いました。遣留学^ロシア、中国、韓国、アメリカ)、(カナダ〕の合わせて5コースの参加学チャーショック、多くの外国留学生との囲んで、いつまでも思い山山話が弾みま帰国報告会が1月16日、本校国際交流センターで開かれ、貴重な体験を語 無事終了した情報文化学科の派情難システム学科の海外夏期セミナー生は総勢72人という過去最多となりました。武藤学長が全員の無事帰国と成功をたたえてあいさつ、槻木学部長の音頭で乾杯の後、各コースの代表が留学の成果を発表しました。初体験の不安、会話の苦戦と楽しみ、カル交流など、テーブルの軽食と飲み物を 興味本位で「行ってみたいなあ」と思って臨んだ中国留学は、さまざまな出来事と人々との出会いの連続でした。中国人は考え方が大雑把です。しかし中国人は買い物などの場面で 本学の開学に多大な貢献をされ4月6日、東京都日野市の病院で 情報文化学科2年渡辺 浩太初代学長を務めた内山秀夫氏が言葉は壁ではなかつた開学の理念を確立、辛口政治評論など展開貴重な体験、成長ぶり披露 過去最多の5コース72人参加見ず知らずの他人と長話するのが好きで、語学力の無い私の中国語に対しても親身にきいてくれる、人情味あふれる人 語学留学に行きながら変な感想ですが、言葉が通じないことはそれほど大変なことではないなあと感じたのも、この留学を通じて学んだことです。必死に身振り、手振り、気持ちで示せばしっかり伝わるのです。ですから「国際交流」は、言葉が壁ではないとしみじみ思 日本では決して味わうことのできない興奮、喜び、不安、さまざまなことがありました。韓国埜言で言って「キムチチの国」というのは食事面だけのことで 韓国の人々は感情をむき出しに、ストレートに表現します。悲しいときは悲しいし、うれしいときはうれしい、怒るときは本気で怒ります。それを包み隠さず、思ったことをそのまま表現しま亡くなられた。78歳。突然の計報に、新学期が始まったばかりの学内が悲しみに包まれました。 内山氏は1930年、東京生まれ。慶応義塾大学経済学部・法学治理論、近代日本研究。同大学教授、福沢研究センター所長、日本政治学会理事などを務めた後、本学開学のおよそ4年前から新設に向  情報文化学科2年齋藤 雄介都卒。同大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了。専攻は政刺激的なキムチの国違いに驚きっぱなしでした。できるようになっていったのです。言語をるものはないと実感しました。せんでした。「一人でも多くの韓国人、中しています。〈アメリカ]ース〉け奔走され、94−97年度、初代学長す。真っ赤に燃えるような赤いキムチの色、そして辛くて刺激的な味がするような情熱的で激しい国でした。日本との 生きている言語に触れ、相手の言っていることも分かるようになってくると、こちらから話しかけることも楽しくなっていきました。そのうちに自然と自分から話しかけに行き、楽しく話しが勉強するのに、人と会話することに勝 海を越え、国境を越え、偏見を越え、「韓国語」という共通点で私はたくさんの伸間をつくることができました。そこには反日感情という偏見は何一つありま国人の日本に対するイメージを変えくる」という私の一つの留学での目標も少しは達成できたように思えます。むしろ、その目標以上のものを得たと確信 白分の人生を形成する上で意味のあとして本学の基礎を築かれました。の目的・特色など開設準備委員会、カリキュラム検討委貝会の中心となって論議を重ね「建学の精神」を確立、また国際化・情報化・地域化の3つの教育原理による「コミュニティ大学」構想とユニークなカリキュラムを編成。そして「新潟とい拠点に立地する大学として、語学力と構想力、情報処理能力を兼ね備えた知識人を養成する」という理念を確立しました。   情報文化学科2年大橋 綾 開学にあたり設置構想や教育う環日本海の対岸諸国との交流人生を形成した体験る、衝撃の毎日を過ごしてきました。ハプニングの連続でした。行きの飛行機は悪天候のためかなり遅れ、次の日の夜には学校が停電、バスに乗り生徒全員で避難。その後も同時に3本の注射を打たれたり、まさかの発砲事件に遭遇したり、降電の危険性のため学校閉鍍のような状態になったりと、とにかく大変なことばかりでした。そして極めつけは私たちが乗るはずだった帰りの飛行機が存在しないと飛行場で宣告されたことです。無事に帰ることはできましたが、そのときは乗り継ぎもうまく行かず、日本に帰れないかもしれないという 近代政治学の第一人者で、教職を共にし談論風発、大学教育の理想や辛口の政治、社会批評、勉学叱唯して学生たちを激励、刺激を与えました。また新聞等に多くの評論を展開して注目されました。 98年3月、退職。新潟国際情報誉教授。主な著書は「政治における理想と現実」(=二書房)、「政治学における現代」一同)、「民族の基層」一三嶺書房一、「比較政治学」(同)、「私学の立場から」(日本経済評論社)など多数。員や学生たちと気軽に酒席など大学名誉教授。慶応義塾大学名 勉強面では毎日課題に追われているため睡眠時間は削られ、顔が死んでいるといわれる毎日でした。その分成長したと思いたいです。ほかのみんなは着実に自分の課題をこなし、現地でできた友人と英語で会誘をし、目に見えるほど アメリカの人々はとても優しく友好的です。知らない人に声をかけても笑顔で返してくれます。最初は銃を持っている、人種差別をするなど、マイナスなイメージばかりが先行していましたが、実際に生活を共にすることで、彼らも私たちとなんら変わりない同じ人間なのだと実感することができました。 今回ロシアには12人が参加したのですが、全貝に「4ヵ月半の自分の留学生私が代表者として紹介します。・大野縞花「ロシア語でKPyr日本語で輪です。ロシアでも韓国人や他県から来た日本人などと友情の輪ができたすでに過去の記憶で、その記憶や人との山山会いの過程や思い出を忘れないよう・馬場綾香「3HaKOMCTBO出会・小田千由希「Ten刀O暖かさ。向こうで出会ったロシア語の講師が、勉強のことだけではなく、健康を気遣ってくれるなど、まるで母親と娘のように深いところで触れ合うことができ、人と人との繋がりを感じられた」ア人と遊び歩いて、授業も全部ロシア語なので、日本と違う4ヵ月半という短い・冨永由賀「CB日3」繋がり。たくさ日本にいる両親や友達と離れていても・渡邊美弥「0TKPHTHe発見。初めての海外で、日本とは違うこと、たくのスピードで英語力が上達していました。活を一一一冒で例えてください」と質問し、・小野澤友里江「C皿eπ一軌跡。留学はにしたい」い。いろいろな国の人との出会いだったり、同じロシア留学メンバーの、今まで見たことのない面との出会い」・青木早苗「ryCTOTa密。毎日ロシ時間の中での密の濃さ」んの人と出会って繋がりが持てたことと、繋がっていることを実感した」・高橋勝一「He』OBeK人。人との出会いはまさに一期一会だった」  情報文化学科2年鴨井 勇太;古で伝える思いそれらすべてが初めての発見」をするにも自分で決めていたから」・熊倉静「c0KP0BH岨a財産。この経験が自分にとって財産になったから」であって、大切なのは伝えたいという強いりました。通じなくても、ジェスチャーによって自分しかし、ただ黙っている訳にはいかないもていた私にとってこの夏期セミナーは、文じることができる、よいチャンスでした。・駒木根和敏「cB06o貝a白由。何・笹川大輝「貝Pyx6a友惰。現地でロシア人や韓国人との間に友情が生まれ、同じロシア留学メンバーとの友情が深まり、日本から定期的に連絡をくれる友人のありがたさも感じた」 そして私は「兄3HK」言葉です。日本語が通じない状況におかれ感じたのは、言葉は気持ちを伝えるための手段気持ちがあること、それを伝えようとすること、相手の言葉ではなく気持ち『BaXHee ■OHHMaT』.HeM roBoP班TL」大切なのは話すことよりも理解すること。この留学は、私たちにとって本当に良いもにな情報システム学科2年富山 貴旭 「もし、言葉や気持ちが通じなかったらどうしよう」という不安を胸に。しかし、カナダの人たちは思いやりがあり、何かこっちが困っている素振りを見せるとそれを察してくれて声をかけてくれたり、逆にこっちが話しかけると笑顔で対応もしてくれました。そして、言葉がの気持ちを伝えることができました。.の。カナダ人は日本人と違い友好的で、とにかく見知らぬ人でも気軽に話しかけます。そのため、ぎこちない英語で会話をする日々が続きました。その結果セミナーの終わりごろには英会話ができるほどに上達しました。言葉が通じなくても、がんばって言葉を伝えようとした生活が「言葉が分からないから黙つていよう」から「分からなくても話しかけてみよう」という考えに変化したのが自分でも分かりました。 今まで日本限定での尺度で物事を見化という世界の広さを自分の身体で感を理解しようとすることです。世界の広さを実感7

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