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した。−”った。に㌔。ない。生へ。  ⊥沃に生きる新潟のために⊥主催者・アムネスティN∪−S代表・情報文化学科・佐藤孝輔場 所・新潟国際情報大学新潟中央    キャンパス(2月妬日) 新潟水俣病は昨年、公式認定から珊年を迎えました。これを機に新潟市を中心に多くのイベントが開催されまし        た。私は現地調査「21世紀のミナマタ         (05年度卒茎若い視点で新潟水俣病の教訓を学ぶおよぴ新潟国際情報犬学有志などに参加し、初めて水俣病に内包される複雑な対立平等の実態に触れたのです。岡政夫教授が3月30日、院で死去されました。硫歳。所に入庁。η171アに駐在。92年にした。関係や、差別、不 前情報文化学部長の市心不全のため新潟市民病墓只都出身。昨年末、体調を崩され入院治療中でしたが、突然の計報で 市岡先生は早大文学部ロシア語学科を京棄後、1963年に新潟市役年には三菱商事嘱託としてアルメニロシアなど 対岸と交流 それは大きな衝撃でした。とりわけ、水俣病の患者さんが暮らす地域では、識を、完全に覆してしまいました。新潟市国際文化部長に就任。今もまだ偏見や差別が続いているというお話は、私の中にあった「水俣病はすでに終わった事件である」という認 こうした経験から、私は大学の仲間たちと、新潟水俣病を再考するプロジ約30年にわたって同市が独自に取り組んできたロシア極東などとの対岸交流を進め、白治体外交の草分けを担ってきました。 叫年に同市を退職し、太陽みたいな潟のために−」は、その第−回目のイになってソーシャルドラマを演じ、被害者との対話を通じ実態を再認識しま それを終えた今、数々の反省点が浮身近な間題を考えることは重要であるということを再認識しています。来年度はこの経験を元に、さらに活動を続 恒例の新入生合宿研修が4月7日から3日間、赤塚のウェルサンピア新潟や大学生活の規律を理解し、教職員や学友会との懇談やレクリエーションで本学の教授に迎えられました。2004年に学部長就任。ロシア国立極東 失礼ながらたいていの先生には、学生の間で密ただ、すべての学生から同じ愛称で呼ばれていたのは市岡先生だけだつた それがご本人の耳に届「余談ですが、同じ発音のロシア語には、行く、歩む、事が運ぶ。そんなエクトを立ち上げました。シンポジウム「21世紀のミナマター共に生きる新ベントです。参加者が患者や役人などかんできますが、その中でもやはり、けて行きたいと思います。 (佐藤)で行われました。両学科のガイダンスかに呼ばれる愛称があった。かもしれない。いた時のこと。意味があるんですよ」親睦を深め勉学に意欲  新入生が合宿研修イッチー。の笑顔第一期卒業生 黒山貴子歴任されました。てくださった。たからだった。ひと夏の間、笑い話へ変わった。総合大学準教授、環日本海経済研究所所長なども そう言って先生は笑っ 3年生の夏、単身でロシアに行ってみようと決めたのも、豪快な笑い声に背中を押していただい泣きたいくらい大変なことがたくさんあった。帰国報告の後、やはり先生は大きな声で笑われた。苦い思い出も、すべてが活動に取り組んでいます。外研修報告など両学科ごとに行われ、ラス別対抗戦で新入生同士の交流がいっそう盛り上がりました。に相談にのってくださった。お決まりの挨拶、観光案内、ずもなかった。かった。スを楽しんできなさい」親睦を深めて、早速、勉学とサiクル 合宿研修の内容は情報センター利用ガイド、コンピュータ演習、先輩の海さらに夕食後の教員との懇談会など盛りだくさん。今年のレクリエーションはドッジボールで、教員も参加したク ウラジオストクで出会するロシア人団体に一週間随行して通訳をやらないかと声をかけられた。市岡研究室に駆け込むと、先生は直前までこと細か人と人との間に立つ際の白分の立場。でもどんなに準備をしたところで、私に同時通訳ができるは 初日は帰宅後に号泣、2日目の朝には逃亡計画を企てた。惨めで情けな手段。与えられたチャンった友人のつてで、来日「なあに、言葉は単なる 先生の言葉が温かかった。へと変わった。て魔法の呪文となった。んなが同じことを口にした。「思い出す先生の顔ってさ、全部笑顔だよね」大変甲し訳なく思っている。込めて。「ありがとうございました」その後の残り数日間は楽しかった。本当に楽しか そしてありがたいことに翌年の来日時にも、再び声をかけていただいた。 すべての経験が社会へ旅立つ前の私にとって、ほんの少しの白信と勇気 私の露和辞典の表紙裏には、市岡先生のサインとともにロシア詩の一節が害かれている。直訳は−いつもあなたのそばで、太陽が輝いていますよう いつからか、私にとっ 先日、お別れの夜にみ 他にもっと怒りたいこともたくさんあったであろう先生にとっては、あまりにも都合の良すぎる教え子たちであることをでも、私たちには笑顔しか浮かんでこない。私たちは先生の、あの太陽みたいな笑顔だけを覚えている。そしてそれはこの先もずっとずっと変わら ,イッチー’こと市岡先 最後はお別れの言葉ではなく、心からの感謝を踊甜剛醐棚描醐㈱欄鮒醐欄韻欄蝿麟鱗織鵜鰯撫鰯1撒織鱗徽総鞘融囎囲呈鰯鯉鰍醐蝸蜴螂撫鰯鱗鰍鱗灘蝿融盟磯鞘煕灘盟融蝿鵬睡鵬鰍蛆醐■鵬醐;鰍鋏里品二靱醐螂岨蛆蝋醐醐踊鵬蝋麟茗;1蛆醐鵬≡;靱鵬;軸1里蝋螂茗靱醐獺醐醐腿鰯醐蝸一■醐職鞘螂岨軸醐拙醐醐鮒甜臓蝿搬唖1亜胴盟醐唖醐醐醐醐囲師獺唖麗鵬蘭醐一醐囲1j.岨醐纐1醐欄欄撤棚嗣甜甜撒醐醐髄甜醐瀞蒲1欄柵;臓蟷醐詑欄醐頸曲欄撒甜概弼職1醐盟撒甜≡1湘欄蟷                                           1聴                                           ’瑚.                                           ;1硅                                    嚥                                         理                                               邊                                     簑                                       垣                                  盟                                    亜                                 盟                                   蛆                                 埋                                      ’硅                                  盟。                             暇                             1醒                       瑞                         辞                    蹄                            辞                     繍                        舗                         職              齪                    脚                 甜                       誼                   盟               硅                     鞘                      捌                       踊                  吾                      .1諦                      ’鞘                          ’鞘=                  .甜          撤                 謂                       肯                   需             、鰯           舖欄  .醐湖踊棚棚            硅鰯             描欄   鰯醐       醐      醐          撤        蹄榊間瑚                 曲                           ■!                                                     L「卒業生に囲まれて(昨年3月の卒業記念祝賀会で和やかにドッジボール

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