本は私の人生の中で大きなスペースを占めています。本からは沢山の知識を得たのは勿論ですが、小説を読んで自分の経験しない人生の主人公になったり、歴史をさかのぼったり、世界を駆け巡ったり、果ては自分の趣味や文化を豊かにして貰ったりしてきました。本にはどんな美女にも負けない素晴らしい魅力的な世界と人生があります。だから私はいつも本と一緒にいます。 |
情報文化学科 |
情報システム学科 |
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| 安藤 潤 | 大山 毅 | |
| 池田 嘉郎 | 河原 和好 | |
| 臼井 陽一郎 | 小宮山 智志 | |
| 小澤 治子 | 藤瀬 武彦 | |
| 越智 敏夫 | 山下 功 | |
| 佐々木 寛 | 永井 武 |
*2008年度の推薦本はすべて図書館内トピックコーナーに配架されています。
ポール・ポースト著,山形浩生訳『戦争の経済学』(バジリコ)2007年 戦争や軍事支出が経済に与える影響を、初級レベルの経済学で説明してくれている本です。私の専門だけに、時間に余裕があれば自分で翻訳したかったのですが。我恨学習指導委員之四年間!! 八代尚宏著『結婚の経済学 : 結婚とは人生における最大の投資』(二見書房)1993年 1992年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学・ベッカー教授による結婚の経済学的分析を中心にわかりやすく解説してくれています。たしかに「なるほど」と思わせる部分もなきにしもあらずです。ただ、合理的な経済主体を前提に結婚をこのように分析することに対しては不愉快な思いを抱いたり、怒りを覚える人もいると思います。その「嫌ぁ〜な感じ」をぜひ実感して、現代の経済学に批判の目を向けてくれれば幸いです。私も「非婚の経済学」でも出せるよう、なおいっそう研究に勤しみたいと思います。 堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)2008年 よく言われるようにアメリカ合衆国の経済格差は日本のそれよりももっとすごいものがあります。「現代アメリカ論」でも講義しますが、その前に一読することをお勧めします。
橘木俊詔著『女女格差』(東洋経済新報社)2008年 ここ数年日本ではさまざまな研究者が格差問題を論じています。その中でも著者は格差問題に関する日本を代表する研究者であり、この2、3年だけでも格差に関する著書は単著と共著を合わせ、相当数に上っています。
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文学から三冊、選んだ。内訳は、私の専門である西洋史から一冊、ロシアから一冊、それに単に好きだということで一冊、である。
バルザック著,平岡篤頼訳『ゴリオ爺さん』(新潮文庫)2005年 切羽詰った主人公に最後の一撃を食らわす運命のノック。といえばロシア文学ならば病気の貧乏青年が凶器をもって殴りこんでくると相場が決まっている。フランス文学ではそうはならない。部屋に入ってくるのは執達吏、すなわち借金の取立て屋である。かくのごとく花のパリは金!かね!カネ!小沢昭一の「金金節(かねかねぶし)」の世界である。このリアリズムワールドにひとり飛び込んだ田舎物の青年ラスティニャック、美貌と胆力だけを武器にどこまで這い上がれるか。少年少女よ、野心を抱け。 ドストエフスキー著,工藤精一郎訳『罪と罰 上・下』(新潮文庫)1993年 で、そのロシア文学である。天才は何をしても許されるという超人哲学を発明して、金貸しの老婆を殺したラスコーリニコフ。この青年、金が欲しかったから殺したのか、それとも自分の天才哲学を実践したかっただけなのか、その辺が当人にもよく分かってない。ドストエフスキーのコロシにはいつも「何でやねん」というところがあって、それがもしコロシのリアリズムであるならば、われわれ凡夫としてはまずしっかり金を数えるところから生活を始めなければならないと思う。 太宰治著『パンドラの匣』(新潮文庫)1993年 いまさら太宰でもないのだが、しっかりと生活を・・・などと上の方で書いているうちに『斜陽』を思い出したので、彼について書くことにする。太宰といえば、加藤典洋『敗戦後論』(1997)が面白かった。加藤のこの本は、自国の兵士の死をきちんと弔うことなしに、他国の死者をきちんと弔うことができるのか(どちらが先かの問題ではなく、日本というネイションをどう確立するかの問題である)という問いを初めて提起したことで、評論のジャンルにおける「戦後」の終わりを画した作品なのだが、そのなかで太宰は、同じ無頼派の坂口安吾や石川淳とは違って、戦中と戦後の間に段差のようなものがない、と評価されている。私見ではこれは、戦争に対する三人の関わり方が違ったからであって、淳の場合、戦争に対して義理立てするいわれがなかったことが大きいのであろう。だが、太宰についての加藤の指摘は正しいように思う。くにの大義が挫けた後に、ひとはどのように生きればよいのか。この問いに太宰はこだわったのだ。『パンドラの匣』は戦中に書いた原稿が焼けてしまったのを、校正刷りを頼りに戦後書き直したもの。療養所の二十歳の男の子からの手紙の形で書かれており、天晴れというほかないほど爽やかである。これと本書に収録されている『正義と微笑』とが、太宰の作品で一番好きだ。
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村上春樹著『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)2002年 短編の連作だ。神戸の震災が基底音になって、小さな木の箱が主旋律だった。その箱には、自分自身の中身がまるまるそっくり入れられてしまう。そうなるともう、自分自身の中身はまったくの無と化す。そんなおそろしい小さな木の箱が、一編一編の作品を連作としてまとめていた。ただぼくには、自分自身の中身がなくなるとどうなるのか、実感がわかない。 ストーリーはこんな感じ。あなたといると空気の固まりと暮らしているみたいと言われ離婚されてしまった男がUFOの降り立つ釧路のラブホテルのベッドの中で自分を見失い、家出をしてきた少女が茨城の海岸で焚き火作りの名人の40男の腕の中で心中直前にやすらかな眠りに落ち、男に裏切られ子供をおろした過去をもつ病理学専門医の女性がタイで出会った中身を完全に失った男に導かれ夢の中である時を待つよう決心し、新興宗教にこころも生活もすべて吸い取られた美しく若い母親をもつ少年が自分の父親に違いないとにらんだ男を追いかけて深夜の草野球のグラウンドに足を踏み入れ身体全体で泣きながら踊り続け、結婚の機会もなく他人の失敗の尻ぬぐいのためだけに誰の目にも留まらず感謝されず人に憎しみを与えるだけのとても危険な債権取り立ての仕事を東京の信用金庫で延々と続けてきた男がかえるくんといっしょにみみずくんと闘い東京を大地震から救い、くまのまさきちととんきちの物語の出口を探し求める男がようやく出口を探し出して親友の男と別れた親友の女に求婚することを決意し、その娘と女の中身が小さな木の箱に吸い取られることのないように一生かけて二人を守り抜く決心を固める、といった、お風呂3回分で読み終える一連の物語だった。 すべての物語に神戸の震災がいろいろな形で登場する。そういえば、昨年の秋の話だけれど、神戸市役所の展望台から六甲山のようやく色づき始めた紅葉を眺めていたとき、すぐとなりに初老のカップルが手をつないで巨大な窓の向こうをまるでそんな窓など存在しないかのように見やりながら、好い感じでデートしていた。 じいちゃん 「よくこんなに早く復興したもんやなぁ」 ばあちゃん 「そうやなぁ」 この二人のこれからの生活には、かえるくんの存在は必要なさそうだ。 村上春樹著『スプートニクの恋人』(講談社)2001年 面白く読むことができたとおもう。『ノルウェーの森』と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の双方のモチーフが実験的に織り込まれていた?そんな印象を持った。この作品、長編にもできたし、短編にまとめることもできた、そんな実験的な作品だったと想う。でも、そのどちらにもならなかった。そんな中途半端な作品でも、独立の生命を与えられた物語として、記憶にしっかり刷り込まれていく。 小説の書き方について悩みがでてくるところは、とても好感が持てた。『神のこども・・・』の中の短編にも、書くことの悩みが吐露される作品があったと思う。悩みを持たない作家は終わりだ。悩み続けながらその過程を嫌みなく作品に投影できる作家は一流だ。彼はやっぱり、その意味で一流だと想う。そんな一流作家の中途半端な実験的中編小説。のめり込んで楽しんでしまった。 スーパーマーケットの、スチールパイプ椅子が冷たく置かれた、万引き犯を問いつめるじめじめした暗い部屋の方が、ギリシャのとある島の夕闇時の港のそばのオープン・カフェよりも、はるかにこころに刻みつけられたのは、なぜだろう。 田村隆一著『自伝からはじめる70章 : 大切なことはすべて酒場から学んだ』(思潮社)2005年 まったりとした雰囲気に包まれる、そんな本だった。とにかく、お酒が飲みたくなる。全70章におよぶ本書のエッセイの中でも、とりわけ、人類の進化のはじまりを酒の発明に求めるエッセイを紹介するくだりなど、読んでいると、目の前にビールがおいてあったらそれが神々しく光り出す錯覚さえ覚えてしまう。 彼の詩の作品を右に開き、左に本書を開いて、どちらも田村隆一の名を隠しておいたら、いわゆるこの利き読みに成果を出せる読み手など、きっと存在しないに違いない。こんなにも異次元な世界を構築できる筆の使い手は、なかなか存在しないと思う。物書きの真骨頂は、雰囲気を醸し出すことにある。そんな自分自身の文章哲学をあらためて確認する一冊だった。 もしも疲れ切った身体を引きずる人がいたら、その人は糖尿のリスクと背中合わせにアリナミンEXプラスを飲むよりも、田村隆一のエッセイを手に取るべきだ。 田村隆一著『ぼくの航海日誌』(中央公論社)1991年 2時間かからないだろう、読み終えるのに。詩の形をとって、一人の人間の人生が表現されていた。アニメを使った良質のショート・フィルムといったところか。しかもアニメに利用されるイラストは、一級品だ。そんな印象をもった。 とにかく、押しつけがましいことばがひとつもない。どう考えても、どう想像しても、その舞台は車のワイパーがまったくきかない土砂降りの雨の中、どろどろになって次の一歩を踏み出すのに十代の体力が要求されるようなひどい気候の下なのに、マリ・クレールの連載というポップな雰囲気を作り出しながら、自分の人生を透明な影絵でもって表現してしまうのであり、しかもしっかりとアルコールは効いていて、詩作の意味まで問うてしまうのだから、この人はただ者ではない。 安部公房の作品のように、読む者がこころをがぶっと食われ、外科的な治療が必要になってしまうことはないのだけれど、彼のこの書き物は、身体全体にいつのまにか回ってしまうフルーティでコクのあるビターな飲み物であり、やみつきになってしまう。不思議だ。雪のつもる季節に鍋でもつつきながらこたつで読むのに最適だ。 安部公房著『箱男』(新潮社) 作中人物は、段ボールの箱を頭からかぶった箱男だ。彼は自分の行動を記録するため、ただひたすらノートに筆を走らせる。生きていくことはノートに筆を走らせるためであって、決してその逆ではないかのようだった。 たとえば、箱男がノートに筆を走らせるのと、数学者が黒板に白墨で数式を書き続けるのとでは、天動説と地動説ほどのちがいがある。箱男は、純度100%の記述それ自体に依存し続け、その状態の継続に生の幽かな意味を見出そうとする。黒板に白墨で数式を書き続ける数学者は、記述に終始すればそれは失敗だと観念することで生じる恐怖と闘い問い続ける。つまり、記述の目的は問いを解くことにある、だから解かれるべき答えをもっているわけだ。でも、箱男にそんなものはない。箱男と数学者の間には、架橋不能な根本的差異が存在する。 箱男がその中にすっぽりと入り込む段ボールは、自分という存在を消去するための道具であった。そんな彼には、愛する看護婦がいた。段ボールに身を隠して街を徘徊しながら、その看護婦の裸体を想像しつづけた。看護婦は彼を段ボールの外へ連れ出してくれるだろうか?彼のノートの終わりを想像しながら読んでみてほしい。 安部公房著『密会』(新潮社) 世の中、ひどいことがたくさんある。そのいろいろなひどいことを生起せしめる現代社会の構造のようなものについて、なんとなく想像してみても、それによって嘔吐を感じることはそうそうないだろう。けれども、文学作品によってそれが表現されると、嘔吐感の止まらなくなることがあるはずだ。密会は、まさにそんな本だった。 この作品で安部公房は、人間存在の一切から価値という価値を剥離することに成功した。こんなことを可能にする筆の力は彼しかもちあわせない。あらゆる価値を剥離され露わになった人間の存在は、さわるとべとべとしているのではないか。きっとそうに違いない。もしもこの密会という作品が現実の社会の精密な複写であるとするなら、このべとべと感も、気の迷いではないはずだ。 それにしても、安部公房はすごい。ため息が出る。出だしの雰囲気は、いつもの彼のメロディーとリズムが感じられるのだけれど、読み続けるうちに、気がつくと、いつもとはまたひと味違った印象で、ガムテープにより体中をぐるぐる巻きにされたような感覚を強いられる。その感覚に酔わされたときしか見えてこないような世界におびき寄せられてしまう。嘔吐の世界が現実の社会か。 Kazuo Ishiguro, 『 An Artist of the Floating World 』 Faber and Faber Ltd,1989年 良い本だった。単純に素直にそう表現しておけば、それで十分だと思える、それほどに良い本だった。彼の筆のタッチはとっても優しい。こころの切なさをやわらかく包んでくれる。しかも、かならず救いが用意されている。こどもの登場人物イチローくんの最後の一言は、真冬の凍りついた湖の上に取り残された老人が、ふとポケットの中から見つけ出したホッカイロみたいなものだった。もういちどオールを漕ぐ力とその楽しさが自然と現れてくる、そんな希望の暖かさを贈ってくれる一言だった。 戦前、アジアにおける大日本の実現を目指して動いた画家は、戦後、居場所を失う。主人公の彼は、貧困のなか鋭い眼をむき出しにする子供たちの上に、中国大陸へ進出していこうとする日本の軍隊を描いていた。他方で、欧米の圧倒的な文明を背景とした植民地支配に対して、日本文化の優越性を示していこうとしていた。けれども、彼の弟子の一人が警察に連行されてしまう。一番優秀な弟子だった。その弟子は、師匠の方針に対抗しようとしていた。その弟子に期待していた師匠の彼は、内務省のプロジェクトに参加していて、名前も影響力を行使できそうなくらい売れていたのだけれど、反政府的な絵を描くようになったその弟子を、助けることはできなかった。こういった経緯は、本書の中のほんの一部で簡単に触れられているに過ぎない。でも、戦後の彼の日常生活の背景を予想させるには、そのほんの数ページの記述で十分である。 彼とその弟子たちは、中国大陸に対して、日本政府の方針に沿ったとあるプロジェクトを進めていた。戦後、彼の弟子の中でもっともできの悪かった者が、彼に対して、自分はそのプロジェクトに関係していなかったと証言して欲しいと頼みこむ。このシーンは、70年代までに青春時代を過ごし終えた世代の日本人には、ぜったいに描くことができないのではないと想う。この時期の日本については、かならずや、正と邪、正義と悪の二分法で描くことになってしまわないだろうか。でも、カズオ・イシグロのこの作品では、政治の硬く冷たい構造に手足を固定され首を絞められるふつうの人たちのこころの風景が、とっても切なく美しく描かれている。彼の筆のタッチは、奇跡に近い。 彼の描く日本は、ふと、日本人が中国の文化の品々に抱くイメージで装飾されているような、そんな印象を抱かせる。たしか、主人公の彼が2番目の師匠のもとを去っていく直前、その師匠との会話のやりとりが描かれるシーンだったと思う、ランタンに次から次へと火がともされていく場面があった。光と影のゆらめきが、こころをとってもやわらかく包んでいくように描写されていた。言語芸術には、色も音も温度も匂いも、こころに入り込むありとあらゆる存在を描くキャパシティがある。彼の作品は、それを見事に証明している。 長崎を舞台にした『A Pale View of Hills』と本書は、『When We were Orphan』とセットで読むべきかもしれない。彼のポスト・コロニアリズム的な色彩が感じられる。日本の政治論にも、それは必要ではないだろうか。欧米の植民地支配を問題にすると、日本では右翼扱いされる傾向がある。欧米の植民地支配に対抗しようとした日本の解放路線を論じようとする場合、日本が中国や韓国やASEAN地域に対して行った蛮行が、不問に付される傾向がある。どっちもどっちだ!『When We were Orphan』では、イギリス・日本・中国軍閥および中国共産党それぞれの鬼畜的な行為が、それぞれに異なった色彩で描かれていた。 構造の圧倒的な重さが、一人ひとりの人間を押しつぶしている、そんな背景画の中で、その一人ひとりの人間の生き方が、締め付けられるような切なさで描き出されていく。ただ、必ず救いの灯火が読者に贈られる。『When We were Orphan』もそうだし、本書もそうだった。硬く冷たい圧倒的な構造を、ほとんど直接的には触れずに、でもありありと舞台の背景画として描き出しながら、そんな切ない人間の生の日常の生き方を淡々と彫拓していく彼の筆のタッチは、言語芸術に対する限りない可能性を予想させてくれる。 こころを描く彼の遠近法は、機械時計では測ることのできない時間の流れを具象化する。この技法は、時間の逆行や重複や伸び縮みを可能にする。彼の時制の使い方に、きっと秘密があるに違いない。もしも彼にこの技術がなかったら、あるいはその習得が中途半端だった場合、先に挙げた三作は、文学を政治の手段に貶めてしまう駄作として読んでしまったに違いない。政治の構造の中にふつうの人々のこころの遠景・近景の重複・逆転を描き出そうとするその試みは、一歩間違えば、政治的な立場によって感動されたり忌避されたりする、そんな情けない文学の模造品に堕していたのだと思う。カズオ・イシグロの筆の力は、これを超えている。 新川和江著『記憶する水』(思潮社)2007年 臨海学校で岩場で遊び、奥へ奥へといくうちに迷い、ふと周りを見渡すと海から離れ山の中に入り込んでいて、空気は透明なままだけど手で触れてその膜を感じられるようになった、そんな神秘の瞬間、清涼水がわき出る泉を見つけたとしたら、そんなときにこころが取り込まれてしまう雰囲気は、きっと、この人の詩に沈静したときと、とても似ているような気がする。とてもすがすがしいのと、せつなくてしょうがないのと。ふたつの空気の流れが別荘地の深閑とした美術館のようにひっそりとうつくしくグラデーションを創り出している。好きになりそうな世界だった。 伊藤比呂美著『伊藤比呂美詩集』(思潮社)1988年 楽器なし、肉体だけの大地の踊り。ただし朝、じゃなくて夕暮れどき。そんな印象がふくらんできた。ことばはリズムを打てるだけでなく、メロディーも奏でられるらしい。この人の詩を眺めながら、そう思えてきた。精神とか、思想とか、そういったこと一切考えず、目をつぶって浸りながら、土の中に身体が溶けていきそうになる。そんなふうな感じだった。ヒトひとり、完全に虜にしてしまう雰囲気を創り出せる数少ない書き手の一人なんだと思う。この人の放つことばは、天才外科医が手術で愛用するこころ凍るような鋭利なメスにもなれば、原始人間ギャートルズたちが野球をやるとき使うような棍棒にもなる。ただ者ではない。 伊藤比呂美著『ラヴソング』(筑摩書房)2004年 ことばのつむぐ大地の舞とでも言いたくなるいとうひろみの踊りのリズムと肉体の打楽器に引き込まれ、もっともっとその世界の奥深いところに立ち入っていきたくなる、そんな読み物だった。 松本大洋著『ナンバーファイブ(吾)』1巻〜4巻(小学館)2005年 松本大洋の世界は何度も何度も楽しむことができる。ふつうは使い捨ての漫画を、耐久消費財にしてしまったアーティスト。中でもこの作品は名作だと思う。人間の世界の多くの大切なことがらの一つ一つについて、日常の我を忘れてファンタジックに沈思できる、そんな作品だった。世界のすべてが無限の優しさと愛情に包まれるのならば、それと引き替えにすべての人々がその自我を喪失してもかまわないと想う、そんな抗しがたい大きな意識の諭しにどこまでも抵抗して、個の自由を守り続けようとする孤独な男。理性の進化が世界に何をもたらすかを知ってしまい、ある日突然成長することを自ら拒否して惰眠と堕食に身を投げた天才少女。1巻から4巻まで一気に読み通すまで、他の何ごとにも手が付かなくなる、そんな経験ができるんじゃないかと想う。 ドリス・レッシング著『生存者の回想』(水声社)2007年 翻訳は良いできとはいえないのだけれど、レッシングの世界の一端が、そのもともとの作品の威力で、こちらのこころにねじりこむようにやっくる。あらゆる秩序、人間らしさを一切否定するライアン一族、大人という大人を狩りの対象にする地下の4、5歳の子供ギャングたち、あらゆるものを覆いまたその核心に存在する「それ」、その向こうに空想的な現実が展開する「壁」、そして醜い獣ヒューゴゥ。こうしたメタファーがリアルにこころに響いてくる。さまざまなまなざしが交差し・反映し・複雑にからみ合いながらも、ひとつのクリアな世界が浮かび上がってくる。その筆の力たるや、ノーベル文学賞を一流の賞に浮上させるだけのものがあった。人の織りなす社会とその内面の世界、その双方をつらぬく構造を冷厳にもファンタジーとしても描き出せるその力量は、人類による言語芸術開拓史の一翼をになっているとさえいいたい。 ドリス・レッシング著『暮れなずむ女』(水声社)2007年 場面場面の描写が、心的風景と社会構造とうまい具合に解け合っていて、どこまでも引き込まれていく。レッシングの作品を読み続けることによって、きっと、どこか広く深い巨大な空間に行き着くことができるのではないか。そんな予感がしてくる。 あざらしの夢、スペインの片田舎のシーン、世界食糧会議の動き、そしてロンドンの労働者階級と中上流階級のそれぞれの居住地区の対比。これらがすべて渾然一体となって、主人公の心的世界に照射されてくる。その心的世界のうごめきの中で、社会的世界の多面的な姿が、もやの中にあってしかし上向きのヘッドライトを浴びたように浮かび上がってくる。 心的世界と社会的世界をつぎはぎなしに一体化させながら、夢や幻想やSF的状況に温度と匂いを感じさせるようなリアリティを浮かび上がらせてゆく、そんな彼女の作品には、まさに現代世界の鉄の構造が紙面に言語で焦げ目ができるほど熱く照射されているのだけれど、そのような思想史的批判性と社会学的再構築性の極限まで高められた作品の中にあっても、一人ひとりの個人の切ない小さな物語がしっかりと描き出されていて、読者はその物理的な肉体の存在の維持という日常の必要を、すっかり忘れてしまう危険にさらされてしまう。 那須田淳著『一億百万光年先に住むウサギ』(理論社)2006年 とっても楽しんで読むことができた。ヤングアダルト文学というジャンルがあるということ、この本ではじめて知った。ヤングアダルト? ヤングなアダルト。なんだそれ? 若いのに大人? 大人一歩手前の思春期時代御用達本? よく分からないけれど、40過ぎた男が中学時代をこんな風に過ごせたらとっても楽しかっただろうなあと想像するのに格好の読み物だった。 作者の那須田さん、絵本作家として活躍しているらしい。この本はもしかしたら、本職の合間に楽しみで昔を想像しながら書いたのかもしれない。書いていて筆が勝手に波に乗っていく、そんな感じじゃなかっただろうか。そんな印象の快適な文章だった。あったかいのに清涼な感じもして、ひとこと、うまいなぁという印象。もちろん、プロだ。当たり前か。 ただ、ヤングアダルト的なものだ。最初は読んでいて、こそばゆくなるような、恥ずかしくて思わず活字から目をそらして中空漂う羽毛を見つめたくなるような、そんな場面記述も心理描写も多かった。でも、読んでいくうちに自然と引き込まれてしまった。 鎌倉の雰囲気も良く出てた気がする。鎌倉が舞台だ。この本がつまらないわけがない。鎌倉は日本で一番の街だと、ぼくは思ってる。 銀河系外開拓団の星磨きウサギの話は、読後しばらくはこころに居座ると思う。いい話だ!この本を読んで涙も何も流さず、うまいなぁと作者の筆の運びを感心しているのだから、歳をとったというものか。作者はぼくより年上だと想うのだけれど、空想の世界ではまだまだ若々しいのかもしれない。
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S.ケイシー著,赤松幹之訳『事故はこうして始まった! : ヒューマン・エラーの恐怖』(化学同人)1995年 事故が起きた時責任者を探し出して処罰してそれで終了としてしまうことはよくある話である。だがこれでは事故の再発を防止できない。なぜ、どうやって事故が起きたのかを解明し、再発防止策を立てることが大切なのだ。
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廣瀬陽子著『強権と不安の超大国・ロシア : 旧ソ連諸国から見た「光と影」』(光文社新書)2008年 『強権と不安の超大国・ロシア』などというタイトルの本を学会の大先生が書いたとしたら、正直言って私は見向きもしない。読む前からだいたい内容は想像できる。
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自分を探すな、5篇。「若いってことはいいことだ」とか言われているうちが、人生、花なんでしょうが、その年代の陥穽のひとつが、「自我の確立」や「自分さがし」などを強制されること。そんなもん、見つけようとしても見つかるわけありまへん(きっぱり)。そんなことする暇があったら辞書をひく癖でもとっととつけろと思うけれど、世の中そういうのが好きな人がたくさん。特に高齢者。もう自分は見つけたと思っている輩だから。若輩層にそのシシュフォスの業苦(という単語の使い方は本当はおかしいのだろうけれど)を強制しようとします。学生さんたちも大変だよね。その罠から逃れるための5冊。読むと楽しいよ。ちなみに並べてみたら全部海外の作品になったけれど他意はない。けれども考えてみたら、この手のいい作品は国内には少ないような気がする。
セバスチアン・ジャプリゾ著,望月芳郎訳『シンデレラの罠』(創元推理文庫)1989年 文字どおり、自分探しの「罠」の本。シンデレラはどうやって自分を見つけるのか。お話としてはミステリー。ただしその「禁じ手」。最初にやったもん勝ちだとは思うがあまりに大胆なプロット。巨万の富を相続することになった二人の女性。その片方がもう一人を殺そうとしたらしいけれど、その真っ最中に大火事が起きる。一人が生き残るけれど全身火傷の重傷で顔もわからず、頭部への打撲を受けていて過去の記憶も消えている。殺そうとしたほうなのか、それとも……。いったい私は誰で、何が起こったのか。というわけで彼女はこの事件の探偵、被害者、犯人、証人という「一人四役」状態になります。さあ、どう決着つけるのか。フランス・ミステリー界の鬼才の技に驚愕せよ。 カトリーヌ・キュッセ著,長谷川沙織訳『ジェーンに起きたこと』(創元推理文庫)2004年 著者自身、アメリカの大学でフランス文学を教える研究者。ほぼ同じ設定の主人公ジェーンはある日、差出人不明の小包を受け取る。中身は『ジェーンに起きたこと』という小説原稿。そこに書かれていたのはジェーン自身の過去10年にわたる詳細な記録だった。本人以外絶対に知りえない恋愛経験や職業上の秘密、自分の気持ちまでが書かれている。誰かが彼女のすべてを覗いているのか。それともジェーンは狂っているのか。読みつづけるうちに自分の記憶なんか本当にいい加減だということに気づく。じゃあ記憶の集積以外に自分ってあるのか。名作『何がジェーンに起こったか』へのオマージュになっているようでなってないところもすばらしい。 フィリップ・K・ディック著,浅倉久志訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ハヤカワ文庫)1992年 そのジェーンが陥った「記憶こそが自分である」という罠についての代表傑作。映画化された『ブレードランナー』も良いけれど、話としては原作のこちらのほうが深くて面白いのは当然か。主人公リック・デッカードも小説のほうがはるかにダンディ(死語)。なんつっても、しょぼい嫁さんがいるし。レイチュルの記憶のなかの蜘蛛の親子はどこに行ったのか。ペット好きな人が読むとまた別種の感興がわくかも。3秒で過去を忘れる羊の自我とは何か。清原なつの『アンドロイドは電気毛布の夢を見るか?』も本当は読んでもらいたいが、あっちは「ぶ〜けコミックス」だし。自粛ということで。 エドガー・アラン・ポー著,小川高義訳『黒猫/モルグ街の殺人』(光文社古典新訳文庫)2006年 この作品集のなかの「ウィリアム・ウィルソン」も自分探しの古典。「影を殺した男」とも訳される本作も自分探しの末路をファンタジーとして描いた掌編。でもその描き方はポー独自のだるさが漂っていて、自分なんか見つけようとしてもこうなるんだよなあと思わせるに充分。精神分析が流行し始めた時代状況も考えながら読んでも興味深い。ちなみに『世にも怪奇な物語』のなかの一篇としてルイ・マルが映画化したものがあります。主演はアラン・ドロンとブリジット・バルドー。これも必見。この短編にかぎらずポーの作品はすべて面白い。「黒猫」は文章による恐怖の極北を初めて経験したものとして個人的には思い入れが強い。また世界初の探偵デュパンが登場する「モルグ街の殺人」を読むと、これ以降の探偵小説の進化って何だと思えるほどである。本書には収録されていないが、おそらくは10種を越えるであろう各社のポー短編集にはほぼ収録されている「黄金虫」も文章でアドベンチャーを体験できる稀有な例としてすすめたい。 Oscar Wilde,『 The Picture of Dorian Gray 』, Barnes & Noble Classics Series,2003年 そのポーの一世代あとのワイルド。これも自分探しの末路か。アメリカから大西洋を越え、イギリスでのお話。自我の発見の困苦に加えて、若さの意味、美しさの意味まで考えようとするからこうなるんだよなあ。耽美主義 Art for art's sake の光と影を示すこの悲劇はぜひ英文で読んでもらいたい。これも映画化した無謀な者が何人かいるけれど、あるバージョンはドリアン・グレイをよりによってヘルムート・バーガーに演じさせてます。まあわからんでもないけど。でもいくらなんでもなあ(嘆)。
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高橋智隆著『ロボットの天才』(メディアファクトリー)2006年 ロボットを見たり聞いたりする機会が増えています。ロボットといっても「鉄腕アトム」のような自分で考えて行動する人間型のものから、ロボットの競技でよく見るような操縦者が操る小型ロボット、そして「機動戦士ガンダム」のようなモビルスーツ型までたくさんの種類があります。
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森博嗣著『スカイ・クロラ : The Sky Crawlers 』(中央公論新社)2001年 森博嗣著『ナ・バ・テア : None but air 』(中央公論新社)2004年 森博嗣著『ダウン・ツ・ヘヴン : Down to heaven 』(中央公論新社)2005年 森博嗣著『フラッタ・リンツ・ライフ : Flutter into life 』(中央公論新社)2006年 森博嗣著『クレィドゥ・ザ・スカイ : Cradle the Sky 』(中央公論新社)2007年 推理小説ではないのだけれども(たぶん)、ミスリーディング(読み違い)を誘う仕掛けがいっぱいあります。さすが森博嗣。「僕」という一人称がたくさん出てくるけど、誰のこと? 私たちはどうやってヒトを捉えているのか? たくさんミスリーディングに引っかかって、自分がいかに「思い込み」で判断しているか、気づかされました。それにしても、今年の夏に映画化されるそうだけど、この小説をどうやって映画化するんだぁ。 竹内薫著『99・9%は仮説 : 思いこみで判断しないための考え方』(光文社)2006年 「思い込み」で判断しないために、ホントを科学で知ろうって考えがちですが、実は科学って「仮説」の集まりって話です。サイエンスを「仮説」と捉えること、そしてクリエイティブな科学の思考を身につけるにはどうしたらいいかを、分りやすく説明してくれています。どんな理論も私たちでひっくり返せるんだという勇気がわいてくる本です。 渡辺健介著『世界一やさしい問題解決の授業』(ダイヤモンド社)2007年 誰かの作ってくれた考え方の道筋を一直線にたどるのではなく、自分たちでいろいろと考えをめぐらせて自分たちの行動を決めてゆく方法をとっても具体的に分りやすく説明してくれています。クリエイティブな思考のためのひとつの方法を示してくれている本です。
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私たちの生きる世界は今、文明の底の方から壊れはじめ、軋んだ音をたてています。その音が聞こえますか?また、たとえ聞こえたとしても、聞こえないフリをしていませんか? しかし歴史上、これまで無数に訪れた人類的な <危機> は、常に新しい時代の胎動をも伴っていました。今年度は、この新たな文明の予感、新しい希望のありかを探求するためのテキストをいくつかご紹介します。いずれも、各々の「土地の匂い」を内包するがゆえの普遍性を帯びたテキストです。
ヴァンダナ・シヴァ著『アース・デモクラシー』(明石書店)2007年 (推薦文1) 副題は、「地球と生命の多様性に根ざした民主主義」。私はいつも、この本を書いたインド人女性の言動に注目しています。世界のモノカルチャー(単一栽培)化が始まる前に、「精神のモノカルチャー」が進行するという彼女の指摘は、とても重要です。彼女が何度も強調する「生命の多様性」こそが、来るべき次の時代のキーワードとなることは間違いありません。 (推薦文2) どうにも、世間は八方塞がりである。危機や問題が山積みになっているのは分かるのだが、一体それのどこからどう手をつければいいのか、まるで見えてこない。それは、われわれを苛む個々の危機や問題が、もはや文明的な次元にまで深く根を下ろしているからである。しかし、このひとりのインド人女性の声に耳をかたむければ、近年われわれが見失ってしまった希望へのヒントを見出すことができるだろう。彼女の処方箋は、まず近代よりはるか以前の古代の知恵にまでさかのぼり、現在の文明や民主主義そのものを鍛えなおすことである。キーワードは、「生命の多様性」。関係を分断し、権力に依存させ、生命を単一化する私的利益優先の世界とは別の、もうひとつの文明を築くこと。つまり、個々に分断された人間が、仲間と共に連帯し、しっかりと自分の足で立ち、多様性や公共の利益を重んじる世界を創りだすこと。それを生活や生命の根源から実現すること。本書は、この遠大な目標が、彼女の無数の実践例と共に、まさに実現可能であることを指し示している。 フランコ・カッサーノ著『南の思想 : 地中海的思考への誘い』(講談社選書)2006年 インドの次は、イタリアから。単に北の文明や近代の残余(欠損)としての「南」ではなく、自立的な価値を持つものとしての「南」を想像/創造すること。それは、地中海の水面のように、ゆっくりと生きる権利。そして波打ち際のように、外部(他者)と内部とをゆるやかに融合させる実践。この本の中から、次の時代のために、同じように内海に生きる新潟の私たちは何を感得できるでしょうか。 アントニオ・ネグリ著,マイケル・ハート著『マルチチュード(上・下)』(NHKブックス)2005年 現代の民主主義のための闘いは、おのずと戦争に対する闘いとなる。<帝国>化する世界の中で、人々は、おのずと共通の苦しみを背負うことにより、「マルチチュード(多数性)」として真の連帯の契機を得る――。この底抜けに明るいフランスの知性は、とにかく読者を元気にしてくれます。本書を飾ることばの無数のきらめきは、この本が世界を変革するために書かれているというごく単純な事実に発しています。 廣瀬純著『闘争の最小回路 : 南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』(人文書院)2006年 次は、中南米から。私も、先日メキシコ、キューバ、コスタリカを訪れましたが、とくにメキシコで社会運動が人々の生活の隅々にまで根をはっている様子にとても驚きました。徹底的に収奪され、丸はだかにされた人々が「世界を変える」ためには、狭い「政治」をこえて、土地の精霊たちの力を借りなければなりません。本書は時事論集ですが、「読者ひとりひとりのうちにある『闘争の最小回路』によびかける」べく書かれました。 イマニュエル・カント著,池内紀訳『永遠平和のために』(集英社)2007年 最後は、カントです。ドイツを生涯一歩も出なかったカントさんは、ことばと思考の力で永遠平和のための諸条件を導き出しました。そのひとつひとつのフレーズは、今読んでも古びていないどころか、どんどんと輝きを増しています。力のある写真と共に、ぜひ噛みしめながら読んでみてください。――「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」(p.49.)!
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小川勝著『イチローは「天才」ではない』(角川書店)2002年 今年3月に放送されたあるテレビ番組で京都大学の学生に「最も独創的な人は?」と聞いたところ、そのナンバー1はノーベル賞受賞者や文化人などではなく、野球のイチロー選手でした。
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尾辻克彦,赤瀬川原平著『東京路上探険記』(新潮社)1989年 日常生活の中では様々なことが起こっています。身の回りで、そして毎日の通学の行き帰りで、町並みや風景の変化を感じ取っていますか? この本に出てくる人たちは、通常は誰も感心を示さないものに対して鋭い観察眼をもち、知的好奇心を存分に発揮しています。ここには23の探検記が収められていますが、「1.無用門の向う側に煙突が沈む」と「7. タカシ 心配するな、すぐ帰れ 父」が特におすすめです。なお、この本は尾辻と赤瀬川の共著になっていますが、実は同一人物です。 星野匡著『発想法入門 第3版』(日本経済新聞社)2005年 発想というものは、最終的には個々の人間の独創性にかかっています。しかしながら、新たな発想を引き出すためには、ただ考え続けるよりも、何らかの方法を使うほうが効率が高くなります。この本は、さまざまな発想法が書いてありますが、それらをヒントにして、自身にとって最良の発想法を創り出すことが本当の発想法なのです。 佐藤信夫著『レトリック感覚』(講談社)1992年 大学入試対策の国語の評論文で、部分的に読んだ人もいるでしょう。現在、日本語に関する本が巷にあふれかえっていますが、一冊だけ読むのであればこの本をおすすめします。比喩による表現の奥深さを再認識させてくれます。
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マイケル・ヒルツィック著,鴨澤真夫監訳『未来をつくった人々』(毎日コミュニケーションズ)2001年 『未来をつくった人々』とは、ゼロックスのパロアルト・リサーチセンタ(通称PARC)で1970年代にアルトなどの現在のパソコンとワークステーションのもとになる技術を開発した人々の話である。 1945年から1975年頃まで個人がコンピュータを専有するという発想はなかった。大型コンピュータを複数の端末から共有して使用するのがあたりまえで、文書作成、清書、作図、写真および動画の保存などはコンピュータにさせる仕事ではなかった。 1970年頃まで、ゼロックスはコピー機の独占製造販売により莫大な利益をあげていたが、事務処理のために紙、電卓、コピーを大量消費する時代はそのうち終了し、コンピュータを使用する時代(当時はオフィスオートメーションといわれた)になると予見し、1969年にPARCを設立したのである。2008年の今、その通りになっているので、本書の題名のように未来をつくった人々となるのである。 1975年までの間に、MAXC、アルト、ゼロックススターなどのコンピュータを試作した。これらのコンピュータには、現在使われているようなビットマップディスプレイ、レーザプリンタ、マウスなどの周辺機器、アイコン、オーバラッピングウインドウ、ポップアップメヒューなどのユーザインタフェース、ワープロソフトなどが開発され、組み込まれている。ネットワーク技術のイーサネット、オブジェクト指向言語スモールトーク、コンピュータチップ設計技術、デスクトップパブリッシングシステムなどもPARCで開発された。しかし、ゼロックスの経営者達は、PARCの成果を製品化する決断をしなかった。その結果、PARCの研究開発者達はスカウトされたり、ベンチャを設立し、今日のパーソナルコンピュータの時代をつくった。 本書は、551頁にわたりその過程を詳細に記述している。原本は1999年に出版され、本書は2001年に翻訳されて出版されたものであるが、本書の内容は示唆に富む。ただし、日本語訳が読みにくいのが難点である。
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新潟国際情報大学 情報センター(図書館)