2006年度版   

 本を読みながら、涙が出たり、怒ってみたり、悲しんだり、感動したり、本を読むのは楽しいものですね。自分の学習や仕事に関係する本を買うのは勿論ですが、専門外の本を読むことにより、知らずにいたことを知り、自分の世界が広く大きくなったと思う事が少なくありません。私は、小説は勿論の事、政治、経済、法律、社会全般、福祉などに関連する本を買い求め、時々、参考となる文字や文章をノートに書きとめておきます。その中の幾つかは、私の人生の中で大きな示唆を与えてくれました。読書はきっと学生諸君の人生を豊かなものとすることでしょう。


新潟国際情報大学 学長 武藤 輝一


情報文化学科
情報システム学科
安藤 潤 赤木 敏子
池田 嘉郎 苅部 恒徳
臼井 陽一郎 近藤 進
小澤 治子 永井 武
越智 敏夫 樋口 光明
グレゴリー・ハドリー  
佐々木 寛  
申 銀珠  
長坂 格  
プラーソル・アレクサンドル  
矢口 裕子  

赤木 敏子

深谷忠記『自白の風景』 徳間書店、2003年

 平成21年には、裁判官と共に殺人や誘拐などの刑事事件の法廷に立ち会い、判決にまで関与する裁判員制度が導入されます。裁判員は、選挙人名簿からサンプリングして作成された裁判員候補者名簿を基に、事件ごとに抽選で選ばれます。したがって、皆さんも裁判員に選ばれることがあるのです。
 このミステリーは、一人の弁護士が二十数年を隔てて起きた2つの冤罪(えんざい)事件の間に、緻密な糸を張り巡らせ、手繰っていく。冤罪は深刻な社会的問題であり、取り調べや捜査の過程で生じる事実誤認から生まれるものです。かつての日本にも冤罪ではないかと問題になった事件はいくつかあります。したがって、現在の裁判では自白だけで有罪にすることは難しい。そこで警察は犯行を裏付ける証拠を必死に探すことになります。
 第1の事件は、被害者のものと思われる血液が付着したシャツを、容疑者として逮捕した人の住まいから押収しますが、これは警察官によって作られた証拠だったのです。押収の経緯と鑑定方法に疑義があったにもかかわらず、裁判所は有罪の判決を下しました。そして第2の事件の被害者は第1の事件の裁判官であり、容疑者は第1の事件の警察官という筋書き。
 読み始めるとどんどん引き込まれていきます。いわゆる専門書ではありませんが、警察官や検事による取調べや裁判のあり方などを考えさせる本です。


安藤 潤

John Wooden『John Wooden's UCLA Offense』 Human Kinetics,2006年

 John WoodenはかつてUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)バスケットボール部を率い、12年間で10回も全米大学選手権のタイトルを手にした名ヘッドコーチである。
 この本はもちろんすべて英語で書かれている。しかし、かなりの部分がバスケットボール用語であるので、バスケットボール経験者なら、なんとなく読めるかもしれない。バスケットボール経験者であれば、この本を読むことでバスケットボールを通じてこれまでに学んだ英語の構文、語法、文法などを確認できる。また、付属品のDVDではすべてのフォーメーションを観ることができる。何回も繰り返し視聴することで、バスケットボールの勉強にもなるし、少なくともバスケットボール用語を聴き取れるようになると思う。
 バスケットボールを学ぶ手段としての英語という観点からも、ぜひ本学バスケットボール部の学生はもちろん、多くの学生にも読んでもらいたいし、DVDを観て英語を耳に入れて欲しい。
 そう言えば私がまだ中学生の頃、なぜかUCLAのトレーナーが流行したが、彼の偉業を知ってその理由の1つがわかったような気がする。

横溝正史『金田一耕介ファイル5 犬神家の一族』 角川文庫、1972年

 角川映画第1作として当時大きな話題となった「犬神家の一族」が帰ってくる。犬神佐兵衛が残した莫大な遺産の相続をめぐり、次々に起こる殺人事件は、その凄惨な映像シーンと佐清の白いゴムマスクともに強烈なインパクトを私に残してくれている。
 ただ、横溝正史の作品では、連続して起こる恐ろしい殺人事件や、直接的な殺人の動機を知って「なるほど」と納得して終わらないでほしい。横溝正史がこの世を去ってなお、作品を通じて我々、そして日本社会に問うているのは何か。おそらく、昔から本質的にはまったく変われないでいる我々を、そして日本社会をあの世から眺めて、彼は今日もほくそえんでいるような気がしてならない。
 金田一耕介シリーズはテレビでも映画でも多くの作品が残され、今はDVDで観ることができる。「獄門島」、「悪魔の手毬唄」、「本陣殺人事件」、「悪魔が来たりて笛を吹く」など併せて読み、DVDを観れば、横溝正史が伝えたいことがなんとなくわかるのではないかと思う。


池田 嘉郎

文学から三冊、選んだ。内訳は、私の専門である西洋史から一冊、ロシア史から一冊、それに単に好きだということで一冊、である。

ヨーゼフ・ロート『果てしなき逃走』(平田達治訳)、岩波文庫、1993年

帝国というと抑圧的なイメージがつきまといがちである。だが、多様な民族がとにもかくにも一つの政体の下で共存する制度として見るならば、帝国を全否定するのはあまりに惜しい。かつてはヨーロッパにも幾つかの帝国が君臨し、地域の安定にそれなりに寄与したものである。そこに暮らす者の感覚を知りたければ、『果てしなき逃走』が一つのヒントになるかもしれない。物語の主人公はハプスブルグ帝国のユダヤ系臣民で、第一次大戦に従軍して捕虜になった後、革命ロシアの大冒険を経てやっとのことで故郷に戻ってくる。だが彼の育った帝国は既になく、チェコ人やハンガリー人やドイツ人の新しい国々にも居場所を見つけることができなかった。これはロート自身の物語で、彼はその後故郷喪失者として、帝国の追想に余生を捧げることになるのである。

アントン・チェーホフ『かもめ』(湯浅芳子訳)、岩波文庫、1976年

作家志望の息子がろくな才能もないのにバカな芝居をかける。それを見せられた母親はゲンナリするが、彼女とて大女優だったのは昔の話、今は時代から取り残され、息子に構っている場合ではない。どころか愛人にも捨てられそうな具合である。こいつは名の売れた作家だが結構悪いやつで、女優の息子のガールフレンドに手を出している。それで母親も息子も苛々している。穏やかに話していたのが突然切れて怒鳴り合う。そしてまた突然しみじみとした会話に戻る。誰も幸せになれずに、時だけが過ぎていく。芸術を志す者の業を『かもめ』ほど切なく描き切った作品は少ない。

谷崎潤一郎『春琴抄』、新潮文庫、1951年

文楽も歌舞伎も痴呆の芸術であると谷崎はいう。だから下らない、という風には話はつながらない。そうではなく、人間の内面についてあれこれ理屈をつけて考えてみても仕方のないことが世の中にはある、というのがここでの肝要なところである。何も文楽や歌舞伎の筋立てには限らない。女と男の関係はいつだってそうである。『春琴抄』の主人公、盲目の美女春琴は、奉公人であり音曲の弟子である佐助をひたすらになぶる。佐助はその春琴を一心に崇め続ける。二人の間にあるのは嗜虐や被虐の変態趣味ではない。それはただ稀に見る絶対の愛なのである。


臼井 陽一郎

安部公房『他人の顔』新潮文庫

文芸批評のアマチュアであってよかったと、胸をなで下ろすときがあった。日本文学の研究者でなくて助かったと、深呼吸するときもあった。公房さんのこの作品に、もしプロとして出会っていたら、大変なことになっていたと思う。安部公房研究者で一生を終えることになってしまったかも知れないのだ。こんなアンチ公房的生き方、安部公房フリークには断じて許されない。だから、この作品は心の醇となるせつない恋物語として読むことにしたい。決して、顔という人間の本質に社会関係のすべてが織り込まれている様相を100%の原色で描き切った作品だとは、考えないようにしたい。かなりムリをしてそうしている。ヒトが人となったのは、直立二足歩行ゆえではない。顔がその全存在の中心に固定されたからだ。こんなことを考え出すと、この作品の凄みがますます削られてしまう。これは、現象学的手法でもって存在者の存在に迫る一級の解釈学研究の書などではない。一万カラットのダイアモンドのようにひかる、妻と夫の恋物語なのである。

安部公房『夢の逃亡』新潮文庫

この書物は短編集である。短編集はそのうちの一本の作品で、全体の性格が決まってしまう。この書物も例外ではない。「名もなき夜のために」が織り込まれたゆえ、これは書物ではなくなった。映像があるからだ。しかもただのトーキーではない。においまで漂う。さらに付け加えれば、そしてこれがもっとも大切なことだが、夜の闇の重さを感じられるのである。夜の山手線は、恋人や友だちと別れて家路につくための、ちょっとだけ寂しい通路ではなくなった。車体のリズミカルな軋みは車内の白色灯をゆらし、心の闇をやさしい色に染めていく。公房さんはそんな山手線を、メリーゴーランドにしてしまった。スティングに出てくるやつより、いっそうもの悲しく、もっとせつなく、さらに切羽詰まっている。そんなメリーゴーランドだ。もしかすると、「彼」に会ったことがあるかもしれない。

安部公房『燃えつきた地図』新潮文庫

街に出るときは、いつも帰り方を確認する。旅に出るときなど、なおさら徹底する。まるでドアを一歩出たときから帰路についているようなものだ。だから、いつも外出を楽しめない。そんなキャラクターだから、よけい、名刺に「旅行中」としたためたニューヨークのペップバーンに憧れる。けれども、ヘップバーンだから、公房さんの世界にあらわれても大丈夫なのであって、飛行機に乗った瞬間から降りるときのことを心配しているつまらない人間にとっては、地図が燃えつきてしまうと、大変なことになる。しかも、絶対に「ここ」に存在したはずだとの確信を検証するため何度も「ここ」を低徊し、そのうち自分という存在者への意識が失われていくことだって、たしかにありうるのである。公房さんの燃えつきた地図の世界に引き込まれれば引き込まれるほど、ティファニーで朝食を取り、夜のテラスでギターを弾くヘップバーンの、しなやかで絶望的な美しさが、脳裏に心に瞼に、原色で甦ってくる。

大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』東信堂

こころ動く社会論に、久しぶりに出会ったような気がする。昔は良く感動したものだ。それが最近は、とんと、ご無沙汰であった。知的に血湧き肉躍るような感覚は、それが知的であるがゆえに、こころを静かに、しかし着実に、そして圧倒的に支配してゆく。計算高くも真の理性を意図的に捨て去った何人もの暴徒たちが傍若無人に走り回ったあとのストリートのようにめちゃくちゃにされた国際裁判、そこから普遍的な理念と規範を取り出し、その意味と意義を構築していくという知的試みは、社会科学に従事する者たちにとっての、英雄的行為であるといえないだろうか。

金子光晴『詩人』講談社

ハードボイルドはアウト・ローにかぎる。ただし、彼の場合、そんな公式を超越している。ブブカが5メートルのバーを跳ぶようなものだ。こころの悪性腫瘍をゾーリンゲンのナイフでみずから抉り出す。これを70年続け、なお、闘う相手を時代の中に見い出す。しかも、腐臭はない。いっさいの倫理を拒絶して映える美しさ、これをことばで編み続けている。つきあい方は、これが難しい。無時間の迷路に引きずり込まれてしまう。そうなると、運良く抜け出せるのは、抜け殻の身体だけだ。

金子光晴『絶望の精神史』講談社

だれがメガフォンをとるべきだろうか。日本の近代史が、映画になる。ちりばめられた生の断片は、それぞれの存在の深さを実感させるとともに、その存在が埋め込まれた社会の構造の、気が遠くなるほどの分厚さもまた、たっぷりと触感に訴えてくる。そんなショートストーリによって、全体がトムとジェリーの追いかけっこのようなめまぐるしさで、回っていく。絶望の意味について熟考するための論攷などではない。さまざまな絶望の形を、人間存在の日常に照射していくその手法は、読み手の気分にありとあらゆる感情を次から次へと浴びせかけていく。これは、叙情詩でも叙事詩でもなければ、いわんや、私小説などでもない。ジャンル分けしたとたん、この書の価値は劣化してしまいそうだ。

安部公房『終りし道の標べに』講談社

何のために書くのか。まったくもって野暮な問いかけだ。いや、それどころではない。中国東北部の大地も凍る厳寒の土牢でノートに鉛筆を走らせる彼にとって、蟻さえ群がろうとはしない形だけの蒸しパンとスープの方が、はるかに価値ある存在だろう。OK。ならばぼくは問いたい。だれのために書くのか。自分を見つめるもう一人の自分にとって、その見つめている自分が絶対の他者となって現れ襲いかかりこころを食い尽くそうとするとき、食い尽くされるこころがいったいどちらの自分の所有物なのか、判然としなくなってしまった状況では、できることはただ一つ、白い紙に鉛の粉を付着させることだけなのかもしれない。でも、いったい、だれのために?存在を象徴するものどもやことがらの向こうに横たわっているはずの存在そのものに手を伸ばそうとするのは、いったい、だれのためなのだろうか。何のためという問いの無意味さは了解しよう。が、だれのためと問うことがないと、ぼくにとって終わりし道の標べにと名づけられた24歳の書き手の紡ぎ出す世界は、凶器以外のなにものでもなくなってしまう。小説というなまえは、果汁10%未満のソフトな作り話にこそふさわしく、終わりし道の標べにという活字が鋼の機械で印刷された文庫と呼ばれるこの紙の物体は、その存在のあり方にふさわしい名称が追い求められねばならない。ぼくにとってこの作品は、まさに存在象徴の向こう側にひっそりと冷たく横たわっているはずの、名づけえぬもののありかを突きつけてくれる。それを小説という名札の着いた引き出しに放り込むことはできない。しかしそれにしても、処方箋なき劇薬である。取扱注意の麻薬である。だれのためにと問い続け読み進めることによってのみ、存在象徴に囲まれた慎ましやかな日々の生活の中で、象徴であることにいささかのいたさもつらさも感じようとすることなく、ゆったりとした気分で、次の日曜日のデートコースを想像しながら、珈琲の香りを堪能することができるのである。

谷川俊太郎『詩を書く』新潮社

氷とグラスがふれあう夏のカルピスは、欲望をさわやかに取り繕ってくれる。みかんの香りと連れ合う冬の緑茶は、欲情をやさしく包み隠してくれる。彼という存在を通じてときはなたれることばたちは、ぼくにとって、そんなカルピスであり緑茶であった。決して、人の存在の悪臭を、不躾に鼻先に突きつけるような、バーボンでもなければウオッカでもなかった。ぼくにとって散文は、とっても大切なことばのファッションであり、彼の散文集を読み終えた今、彼の飛び跳ねることばたちの魔法が、トナーを変えたばかりのプリンタから印字された活字のようにありありと、見えてきたような気がしてならない。そのことばたちは、夏のカルピスと欲望の、また冬の緑茶と欲情の、境界をなくしてくれるのである。欲望や欲情はポンポン跳ねてファンタジックになり、カルピスや緑茶はどろどろにぬるくなってこころにまとわりついてくる。芳ばしい香りと腐敗の悪臭、銀河を旅する木製の宇宙船と生ごみをはい回るゴム手袋と長靴、これら一切がひとつの世界で躍動するのである。いったい彼は何を食べてこんなにことばたちに好かれるようになったのだろう。


小澤 治子

渡辺光一『アフガニスタン 戦乱の現代史』 岩波新書,2003年

2001年9月に起こったアメリカでの同時多発テロ事件を契機にアフガニスタンは国際社会の注目を集めることとなった。最近日本のマスコミでの取り上げ方は小さくなってしまったが、復興と国作りには今なお大きな課題が残されている。本書は19世紀半ばからイギリスとロシアの狭間で国家形成を行ってきたアフガニスタンが、二度の世界大戦と冷戦期を通じて,まさに「戦乱の十字路」に位置付けられて歩んできた歴史が明らかにされている。本書を読むと、あの同時多発テロ事件の背景が少しわかるかもしれない。

吉田敏浩『ルポ 戦争協力拒否』 岩波新書,2005年

イラクへの自衛隊派遣,有事法制の成立。日常生活の中でほとんど意識することはないかもしれないが、日本は着実に「戦争のできる国」へと変容しつつある。その中で市民レベルでの「戦争協力拒否」の動きが進行している。戦争の加害者にも被害者にもならないためにはどうすればよいのか。是非この本を読んで真剣に考えてほしい。

田中伸尚『憲法九条の戦後史』 岩波新書,2005年

日本国憲法をめぐり様々な議論が行われている。本書は、憲法九条が政府によって常に「形骸化」の危機に曝される一方、その理念を生かそうとする市民の行動によって、戦後日本の歴史が築きあげられてきたことを明らかにしている。日本や国際社会のあり方を考える上で,是非読んでほしい一冊である。

向井万起男『君について行こう(上)女房は宇宙をめざす』 講談社プラスアルファ文庫,1998年

     『君について行こう(下)女房と宇宙飛行士たち』 講談社プラスアルファ文庫,1998年

日本初の女性宇宙飛行士として注目を集めた向井千秋さんの夫、万起男さんの著書。
上巻、下巻に分かれている。二人の出会いから結婚,そして千秋さんが夢を実現させて宇宙に向かって飛び立つまでのようすが様々なエピソードを交えて大変興味深く描かれている。宇宙飛行訓練の裏話,乗組員同士の交流など読んでいて飽きない。そして何よりも,『君について行こう』というタイトルが示すように,社会的性差の解消について、互いの生き方を尊重し合う男女の生き方についてなど、いろいろなことを考えさせてくれる本である。


越智 敏夫

いきもの大自然寄稿5編。現代日本の若年層にとっての不幸は「かわいさ」以外の価値基準を表明しにくいことだ。「かわいい」と1回言うたびに人間の脳細胞は6千万個ぷちぷちと減る(嘘)。かわいくない生き物こそ本当の他者である。人は人でないものと出会うことで自らを知る。ということで人間と動植物の邂逅を描いた傑作を。『我輩は猫である』と『動物農場』はあえてはずす。ウラ技『地球幼年期の終わり』も除外。3作とも必読の快著ではあるけれど。

ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』ハヤカワ文庫SF

現在から数億年後の地球。惑星としてのエネルギーが減退し自転は停止。常に太陽に向いている半球上では数千メーターの高さまで巨大な熱帯植物群が生い茂り、残りの半球は陽もささぬ零下の暗黒。高度に進化した植物は動物を餌として地球を支配。なかには自由に移動する能力まで備えて捕食活動にいそしむものも。我らサル目ヒト科は酷暑と酷寒のあいだの狭い地帯に身を隠し、草木にぱくぱく喰われながらかろうじて生存。さらに一部の植物はなおも巨大化、宇宙空間さえ超え、月と地球は植物の蔓で固定されるにいたる。はたして人類は生き残れるのか。妄想と空想の境界。この世界観に圧倒される幸福。菜食主義者に幸あれ。

松谷みよ子(司修・絵)『死の国からのバトン』偕成社

人が猫に会う。ところがその猫は鼻先を地につけて独楽のように舞い、狂死する。それを笑いつつも恐れおののいた人間は、猫の中枢神経に有機水銀が蓄積されていたことをまだ知らない。有機水銀は昭和電工という「優良」企業から垂れ流されたものであり、そのときにはすでに猫の飼い主である人々の脳のなかにも蓄積されていた。阿賀野川流域に発生した新潟水俣病である。企業は悪魔の所業を繰り返し、政府は嘘をつく。自治体は無能さをさらし、無辜の被害者は差別される。大学の研究者、医者たちも分裂する。死の国からのバトンは誰に渡されたのか。新潟を舞台にした絵本では無比の美しさ。泣くことさえできない悲況の底への愛惜。『ふたりのイーダ』ではじまった直樹とゆう子兄妹の悲劇めぐりの旅はまだまだ続く。

カレル・チャペック『山椒魚戦争』ハヤカワ文庫SF

もし山椒魚が人間とコンタクトをとったらどうなるか。この異能のチェコ人作家は本作をユートピアとしてではく「人間の現実」として書いたという。本書の発刊から2年後、ヒトラーはチェコスロヴァキアからズデーテン地方を掠奪、ミュンヘン会談の宥和を経て2度目の世界大戦は目前に迫る。ナチスが攻撃し、ソビエト共産党も改竄した天下の奇書。予備知識なしで読んだほうが面白い。この邦訳新版に付随の「作者の言葉」や訳注、解説などは絶対最後に読むこと。特に訳注でネタばらしをしているのはルール違反だし、エスペラントについての解説は原著者の意図を曲解していると思う。ところでこのチャペック発案の「ロボット」という用語を私たちはあまりに能天気に使ってないだろうか。慙愧に耐えないハンザキの心を知れ。

ベルナール・ウェルベル『蟻』『蟻の時代』『蟻の革命』角川文庫

人間に魂があるのなら蟻にだって魂はあるはずだ。蟻の自意識。彼らは記憶を持つか。コミュニケーションの方法は。階級社会なのか。性行為の意味は。どうやって分家するのか。人間に対する認識は。蟻にとって神とは。この豆腐のようにぶ厚い文庫本3部作を読み終えるとき、あなたは蟻を踏み潰すことを恐れて路上を歩けなくなる。SFでもミステリーでも、ましてやファンタジーでもない。「不思議」としか言いようのないエンターテインメントの綾。映画化しようとする無謀な金持ちがいたらびっくりするが。でもこんな小説書く人がいるなんて、人間社会も捨てたものではない……と思うのは蟻にとってはもっとも良くない読み方か。

Dean Koontz, Watchers, Berkley Publishing Group

アメリカ軍が遺伝子操作で作り出した生物二体が施設から逃走。一匹の外見はゴールデンレトリヴァーのまんま。しかし知能は人間以上。識字力あり。善悪まで判断可。もう一匹は意図的に醜悪に作られた巨躯。類人猿の体に狼の頭部。発達した知性は残虐さと狡猾さ以外には向けらず、近よる生物を意味もなく殺戮しつづける。すべての者に愛される「善」とすべての者に嫌われる「悪」。この二匹が相互に感応しつつ初夏のサンフランシスコ郊外、暗闇を疾走する。死体の山が築かれるなか金の匂いをかぎつける裏組織。冷酷なヒットマンは野望をめぐらし、政府はすべてを抹消しようとする。ベストセラー量産マシーン、クーンツの本領発揮。このアメリカ版「アトム対プルートゥ」の面白さは原著で読まなければもったいない。翻訳は絶版だし意地でもいいから英語で読め。人生、意地を捨てたらおしまいだ……というお話でもあります。


苅部 恒徳

ル・グゥイン『ゲド戦記』 岩波書店 2006年
Le Guin, Ursula K『TheEarthseaQurtet』 Puffin 1993

 この夏公開されたアニメ映画『ゲド戦記』は派手な前宣伝にもかかわらず、観た人たちの失望・落胆の声は大きく、評価は最低の星1つが多かった。
 『ゲド戦記』とは訳書の題名でわかりにくいが、原題は Earthsea で、海と多くの島々からなる著者の構想した架空世界のことである。ゲドとは四部作を通して活躍する魔法使いの名である。映画の失敗は、この四部作を基に人物と状況を勝手に入れ替えて、つまみ食いをした脚本にあると思う。宮崎アニメの衣装をまとわせたが中身が薄いものになった。そこで是非、翻訳でも原著(大学生の英語力で読める)でもよいから原作を読んでほしい。
 太古からの生き物である龍が飛び交い、魔法が使われる世界であるが、登場人物たちは、驕りと恐怖、喜びと悲しみ、勇気と失意を抱いて生きていかなければならない我々自身と同じで、感情移入しやすく読みやすい。


グレゴリー・ハドリー

ジョセフ・コンラッド『ロード・ジム 上・下』 講談社文庫 2000年

 コンラッドはポーランド出身ですが、イギリスに外国人として暮らし、高名な作家になりました。作品は日本語にも訳されていますし、ほとんどどの言語でも読めるはずです。
 『ロード・ジム』は、20世紀初頭、ヨーロッパ帝国主義が隆盛を極めた時代に、南アジアに生きたヨーロッパの蒸気船船長たちの物語です。この作品を読んで私が思ったのは、ここに描かれた帝国主義のダイナミズムは、外国人英語教師の人生、ことに、ネイティヴ・スピーカとして英語を話す能力を切り売りして学校から学校、国から国を渡り歩く連中のそれとなんと似ていることだろう、また、彼らが教える所どこでも、ネイティヴのように英語を話したいと願う人々と彼らのあいだで繰り広げられる、ときに破壊的なドラマとも酷似している、ということでした。皆さんもぜひ本書を手にとって読んでみてください。そうすればあなたもきっと、日本に住む、英語を話す外国人の隠された世界に分け入ることができるでしょう。


近藤 進

豊田有恒『北方の夢 近代日本を先駆した風雲児ブラキストン伝』 祥伝社 1999年

 むかし、テレビが普及していなかったころのこと。毎夕6時ごろラジオで子ども向けの放送劇がありました。その中に「緑のコタン」という1年もののドラマがありました。幕末から明治初期のアイヌの少年とトーマス・ライト・ブラキストンという英国人の物語です。
 ドラマの詳細は忘れましたが、この中にエドモントンが出てきます。緑のコタンは書き物として残っていませんが、プラキストンの伝記歴史小説が「北方の夢」です。アイヌの少年は登場しませんし、エドモントンも数回出てくる程度です。軍人・探検家・博物学者・商人である主人公が、幕末から明治にかけて日本で活躍した?物語です。プラキストンラインに名前を残しており、生物学をやっている人なら知っているかもしれません。
 小説なのでどこまでが史実かという点はありますが、幕末から明治にかけて日本に大きな影響を与えた人物のひとりです。皆さんのご両親に「緑のコタン」という放送劇を知っているか聞いてみてください。


佐々木 寛

前年度は、私が人生で手がかりにしてきた自分にとっての貴重な本のいくつかをご紹介しましたが、今年度は、「暗い時代を生き抜く」というテーマでご紹介したいと思います。いつの時代も、それ独自の暗い側面をもっていますが、その中でも希望をもち続けて生き抜いてきた無数の名も無き先人たちがこの世界を支えてきました。私にとって現代に生きるとは、それら無数の人々のあとに続くことだと思っています。

アート・スピーゲルマン『マウス』(T)(U)晶文社 1991年,1994年

主人公はネズミです。他にもブタやネコなどの動物が出てきます。冒頭で、「友達って何?」という深刻な問いが発せられます。その問いがずっと終りまで響いてきます。舞台の中心は、戦時中のヨーロッパ。ナチスによるユダヤ人大量殺戮の中を生き抜いた父親の経験が語られます。リアルです。重いです。でも、「現代に生きる」ということの意味をしっかりと考えることができます。

ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』晶文社 1999年

彼もナチに追われ、暗い時代を生き抜いた知識人の一人です。このテキストは20世紀を代表する評論ですが、ちょっと難解かもしれません。多木浩二さんの『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波書店)とあわせて読むと手がかりがつかめるでしょう。全体主義に抵抗する精神、感性、生き方とはどのようなものなのか、何度読んでも新しい発見があります。人間すらも複製(コピー)可能になろうとしている現在、「生」をどのように生きればいいのか。じっくり考えてみませんか。

エーリッヒ・フロム『生きるということ』紀伊国屋書店 1977年

To Be or Not to Be(生きるべきか死ぬべきか)という問いに代えて、To Have or to Be(もつべきか在るべきか)というこれまた深い問いが発せられます。著者は、私が最も尊敬する社会心理学者です。読みはじめると、最初は反発を感じるかもしれませんが、少々難解な迷路をくぐりぬけると、これまで体験したことがなかったような叡智の世界に誘われるでしょう。人生変わっちゃうかも。

竹内敏晴『癒える力』晶文社 1999年

生き辛さからの解放に向かって。よく「生きる」ためには、「あたま」だけではダメです。人間は「からだ」とともに生きています。安易な「癒し」に向かうのではなく、自分の中に眠る「癒える力」と対話するという、古くて新しい思考が必要になっています。「からだ」を通して、自立(自律)性と連帯(共生)とを両方体得する極意に触れてみましょう。世界が何倍にも広がるハッピーなヒントがたくさん詰まっています。

石垣りん『宇宙の片隅で――石垣りん詩集』 理論社 2004年

最後は詩集。ここに表現されたものは、来るべき人間の精神世界です。日常の中に、歴史と世界と、宇宙の幸福のすべてを見通す力。私は石垣さんのものの感じ方に限りなく共感します。私たちが生きる喜びを見出す第一歩は、普段粗末につかっている<ことば>が本来もっている体臭や色気、歴史性をとりもどすことにあります。みんな一人一人が詩人です。石垣さんの「生きる」スピリットを感じてみてください。


申 銀珠

高崎宗司『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』 草風社 2002年

 朝鮮民芸の研究家、浅川巧(1891〜1931)は、1914年朝鮮に渡り、18年間朝鮮総督府林業試験場で養苗実験に従事するかたわら、柳宗悦らとともに「朝鮮民族美術館」(1924)の設立に尽力した人です。彼の著書『朝鮮の膳』(1929)と『朝鮮陶磁名考』(1931、遺著)には、朝鮮民衆の生活、朝鮮の現実に注がれた彼の温かい眼差しが感じられ、彼の朝鮮民芸の研究が芸術の力で朝鮮と日本の間違った状況を克服しようとした努力の一環であったことが伝わってきます。
 朝鮮の服を着、朝鮮の家に住み、朝鮮のキセルを愛用し、朝鮮の土となった「朝鮮人を愛し、朝鮮人に愛された」浅川巧。彼の民芸研究家としての業績はもちろん、彼の心温まる人間像を高崎宗司氏は立体的に描き出しています。
 国家や民族の壁を乗り越えて生きた浅川巧の存在と、彼を囲む人々の歩みは、我々に新しい歴史観を提示してくれると思います。一人でも多くの日本人・韓国人にぜひこの本を読んでもらいたいですね。韓国では、昨年翻訳されました。


永井 武

新渡戸稲造『武士道』

 2006年ドイツで行われるワールドサッカ大会に、アジア予選を勝ち抜いた日本代表が出場するため5月26日に出発した。日本チームのユニフォームは青で、搭乗した飛行機の胴体やサッカ会場の横断幕に激励の意味を込めてサムライブルーと書かれている。我々の中にはサムライというと、刀を武器とする古くさいイメージをもつ言葉が、果して日本サッカチームの激励の言葉になるのか、と思う人がいてもおかしくない。

 しかし、以下の理由でサムライブルーは西欧の人々に日本人を十分にアピールする効果をもつ。

 日本の首相や外務大臣は1-2年で交替する。世界の人々に名前と顔とその人の考えが知られる前に変わってしまう。その結果、日本は知っているが顔が見えない、といわれ続けて来た。最近、野茂、イチロ、松井などがMLBで活躍し、日本人の顔として彼らを思い浮かべるアメリカ人は多いであろう。一方、ヨーロッパ人が日本人を知るメディアは、依然として新渡戸稲造が百年前に英語で書いた武士道なのである。武士道という書籍には日本人の魂という副題もつけられ、武士は責任感が強い正義漢、筋を通す信念の人、決断力がある果敢な性格をもつ、と紹介している。さらに、礼節を重んじ、恥を知り、卑怯なことを嫌い、金銭にはこだわらない、ことも書かれている。現代日本人に、世界に広まっているサムライ精神を再確認するために、サムライブルーに込められた意味を理解するために学生諸君の一読を奨める。


長坂 格

村上春樹『アンダーグラウンド』講談社

 1995年の地下鉄サリン事件の被害者への聞き取りが600頁以上にわたって記されている。村上春樹なら、研究者がうまく言語化できないようなことも言ってくれるのではないかと期待して読んだが、最後の彼のまとめよりも、むしろ彼が掬い取り、作品化した被害者の言葉の方が印象深かった。オウム真理教信者にも、地下鉄でサリンを浴びた人達にも私と同世代の人がたくさん含まれていた。今大学生である皆さんはこの本をどう読むのだろうか。

加藤薫『大洪水で消えた街』草思社

 著者は、フィリピンのレイテ島で1991年に起きた大洪水が、なぜ8000人もの死者を出したのかという疑問を、聞き取りを積み重ねることによって少しずつ解きほぐしていく。慣れない土地で、農民、地主、商人、政治家など様々な種類の人々に話を聞く苦労は並大抵ではなかっただろう。本書からは、フィリピンの庶民の暮らしを垣間見ることができるし、開発という波が様々な種類の人々を暴力的に飲み込んでいく様子も読み取ることもできるだろう。

宮崎駿『出発点1979-1996』徳間書店
宮崎駿『風の帰る場所:ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキングオン
中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波新書
佐々木高明『稲作以前』NHKブックス
切通理作『宮崎駿の<世界>』ちくま新書
網野善彦『日本の歴史を読みなおす』筑摩書房
宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』DVD(orビデオ)
宮崎駿監督『となりのトトロ』DVD(orビデオ)
宮崎駿監督『もののけ姫』DVD(orビデオ)

 宮崎駿が好きな人達にとっては当たり前のことなのかもしれないが、最近、様々な時期に書かれた文章や対談を集めた彼の『出発点』という本を読んでいて、彼が照葉樹林文化論に大きく影響を受けたということを知った。そこら辺の事情は、宮崎監督へのインタビュー集である『風の帰る場所』でも述べられている。参考図書コーナーにもある文化人類学事典によると、照葉樹とは、葉の表面が光っているカシ、シイ、クス、ツバキなどのことであるが、ヒマラヤの中腹から雲南、東南アジア北部、西日本などに分布しており、その地域の生活文化には共通性が見られる。これを照葉樹林文化という。

 これまでアニメ映画はほとんどみたことがなかったが(というか映画一般もあまりみないが)、学生時代に、照葉樹林文化論なるものにほんの少しだけ触れていた私は、宮崎駿が照葉樹林文化論に影響を受けていたという事実にちょっとした興奮を覚えた。本と並行してDVDで『千と千尋の神隠し』をみてみた。なるほど、照葉樹林文化論で指摘されていたアジアのアニミズム的世界がこのように表現されているのかと思った。そういえば昔見た『となりのトトロ』(私はある学生にトトロに似ているといわれたが)にも、その雰囲気があった。切通理作の『宮崎駿の<世界>』に書かれていて気づいたのだが、思い出して欲しい。サツキとメイがトトロに出会うまえには、照葉樹林のメタファーともいえる<どんぐり>がいつも出てきたことを!

 照葉樹林文化論については、まずは、日本が嫌いだったという宮崎監督を、東アジアに連なる日本の民俗社会へと誘った、中尾佐助の『栽培食物と農耕の起源』の中の「照葉樹林文化」の章を読むとよいだろう。ついでに読みやすい『稲作以前』を読んでみよう。これらの本だけを読んで面白いと思う人は、私と一緒に東南アジアで焼畑の調査でもしてみるのもよいかもしれない。でも皆さんの多くには、『出発点』とこれらの照葉樹林文化や日本の焼畑文化を論じた本を読んだ上で、『トトロ』と『千と千尋』を見てみることをお薦めする。
 ついでだが、宮崎監督も著書の中で言及している網野善彦の『日本の歴史を読みなおす』も読んで欲しい。『もののけ姫』(実は私は見ていないのでいつか見ようと思っている)でタタラ製鉄集団が題材とされた理由の一つがそこに見つかるだろう。日本の焼畑や芋がゆに着目した照葉樹林文化論、日本史の中で非農民の世界に着目した網野善彦の著作、これらをこなせば、もしかしたら宮崎ワールドを今までとは違った視点で見ることができるかもしれない。


樋口 光明

マヌエル・リバス『蝶の舌』 角川書店 2001年

 皆さんはスペインの内戦を知っていますか。この本は、ガルシア地方の小さな町の、グレゴリオ先生と、スズメ少年一家の温かい交流の話です。ただ、あの日までは。
 少年は先生から、ゼンマイのようになっている「蝶の舌」のことや、巣を植物の絵具で飾る鳥「ティロノリンコ」のことなど興味を惹く多くのことを学びます。
 あの日、フランコに率いられた軍隊の蜂起があり、共和派である先生は捕まり連行されます。町の人たちは昨日まであんなに親しかったのに、自分を守るため全員で連行される共和派に罵声を浴びせます。「裏切り者」「犯罪者」「アカ」。
 母親も少年に「あなたも何か言いなさい」といいます。そこで少年が叫んだ言葉は……。短編集だから簡単に読めます。

東野圭吾『容疑者Xの献身』 文藝春秋 2005年

 ミステリー小説の面白さは、起承転結それぞれのインパクトにある。起:「何かを予感させる出会い」 承:「お決まりのごたごた」 転:「思いもかけない展開」 結:「感動的なラスト」。ミステリーだから内容は書かないが、本の帯に書いてあったキャッチコピーには、「これほど深い愛情に、これまで出会ったことがなかった」と書いてある。

東野圭吾『赤い指』 講談社 2006年

 上記の直木賞受賞作品に続いて書かれたこのミステリーは、99%読み進んでも、意外な展開になりそうにない。しかし主任刑事がいう「大事なのはここから先だ。ある意味、事件より大切なことだ」から始まる最後の20ページは、ミステリーが犯人を捜すだけの小説ではないことを教えてくれる。


プラーソル・アレクサンドル

ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ 上・下』 群像社 2000年

 名高いロシア作家ブルガーコフ著の傑作「巨匠とマルガリータ」は私の最も好きな作品だ。この小説を初めて読んだのは、学生時代である。それ以来5、6回読み返した。ロシア各地には「巨匠とマルガリータ」のファン・クラブも設置されている。
 作品のマジカルな魅力にひかれた読者は、定期的に集会を開き、登場人物などについて語り合う。本作は2000年にポーランドで、20世紀における世界最高の文学作品として認められた。’05年にはロシアで映画化されたが、この話題作の視聴レーティングは全国で29%、首都モスクワではセンセーショナルな58%に及んだ。
 小説の内容は?――ある日の夕方、モスクワの並木道にやや変な、外国人らしい男が姿を現す。色の違う目をしているし、時としてアクセントの強い、めちゃくちゃなロシア語、時として完璧なロシア語をしゃべる。話の内容も変だ。1804年に亡くなったドイツ哲学者カントとの会見を回想する。話し相手の文学雑誌編集者が、近いうちに珍しい処刑を受けると預言する。「あなたは若い女性によって首をチョン斬られます!このことについて、キエフの叔父に至急に電報でも打ってあげましょうか」と。数分後、引き揚げた編集者は足を滑らせ、路面電車にはねられ首をチョン切られて死んでしまう。この恐ろしい事故は、路面電車の若い女性運転手にショックを与える。予言が見事に実現したことを目撃した詩人は、変な外人を捕まえるよう努力するが、失敗して頭がおかしくなり、精神病院へ運ばれる。
 20世紀前半、悪魔が連れ立ってモスクワを訪れる。市民たちの日常生活にはおかしい、時として恐ろしい出来事が始まるのだ。


矢口 裕子

1.水田宗子『ヒロインからヒーローへ―女性の自我と表現(新版)』(田畑書店、1992年)
 アメリカ文学にしろフェミニズムにしろ、日本人の書くものは欧米(本場?)の最新の流行を口移しに伝えたり、チャート式に整理整頓して講釈したり、リアリティないなぁと思っていたわたしの眼からうろこを落としてくれた一冊。日本フェミニズム文学批評の嚆矢といえるでしょう。

2.舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲―七〇年代のジェンダー』(晶文社、2002年)
 気鋭のアメリカ文学者である著者が、松本隆の手になる歌謡曲の歌詞に自らのジェンダー的齟齬・異和感を慰謝され励まされた軟弱な過去を告白しつつ語る、日本ジェンダー批評研究最新の成果。

3.アナイス・ニン『アナイス・ニンの日記 1931〜34-ヘンリー・ミラーとパリで』ちくま文庫(筑摩書房、1991年)
           『ヘンリー&ジューン』角川文庫(角川書店、1990年

           『アナイス・ニン コレクション 1〜5+別巻』(鳥影社、1993-1997年)
 わたしがこの業界に足を踏み入れるきっかけをつくった罪つくりな人。今こそ再読・再評価が望まれる作家。「女として書く」という彼女のことばの意味は何か?

4.柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社、2000年)

 昨年『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞を受賞した自称「生半可な学者」、他称「翻訳の天才」による、生半可ならぬアメリカ文学への誘い。
 新書なので値段とページ数は軽量、語り口も軽妙だが、「名前」「食べる」「幽霊の正体」といったキーワードのもとに、アメリカ文学の古典から現代作品までが縦横に論じられ、引用はすべて柴田訳という、1冊で2度おいしい贅沢な仕上がり。「翻訳は自己消去」が著者の持論だが、ここにはまぎれもない柴田ヴォイスが響く。
 「ハックがハックでなくなることによって成立」する『ハックルベリー・フィンの冒険』から語り始め、「世界は翻訳だ」と言い切るリチャード・パワーズを引いて、アメリカ文学の「消費」にとどまらない新しい「翻訳」法のレッスンを、と語り終える本書は、みごとに自己言及的であり、日本のアメリカ文学研究への批評ともなっている。

5.ビナード,アーサー『日々の非常口』(朝日新聞社、2006年)

 日本語の詩集『釣り上げては』(思潮社)で第6回中原中也賞を受賞した、アメリカはミシガン州出身の詩人によるエッセイ集。20歳を過ぎてから日本語を学び始めたとは信じ難い抜群の日本語(とユーモア)のセンス。しかもハンサム!驚嘆するしかない!!


新潟国際情報大学 情報センター(図書館)